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「福島正則」かなりワイルド系武将だった賤ケ岳七本槍の筆頭!

福島正則の肖像画
加藤清正らとともに秀吉の子飼いとして幼年から仕え、武勇にすぐれていた福島正則。乱暴な印象のエピソードを多く持つ正則の生涯・人物像とは?

秀吉の子飼い

豊臣秀吉の子飼いといわれた福島正則の生涯は、永禄4年(1561年)に始まる。

正則の父は、尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で桶屋を営んでいたという福島正信で、母は秀吉の母・大政所の姉妹である叔母木下氏。2人の出会いは史実には残ってないが、正則はこうした縁より幼少の頃から小姓として秀吉に仕えるようになる。
なお、福島正信は養父であり、星野成政が実父という説もある。星野成政は、秀吉の父・弥右衛門の腹違いの兄弟もいわれている。 いずれにしても正則は、はっきりとした出自が伝えられていないようだ。

初陣は天正6年(1578年)正則17歳のときに播磨三木城への攻撃で飾っている。 これは三木合戦と呼ばれる織田氏と別所氏の合戦であり、当時の秀吉は織田の重臣として中国方面軍団の指揮官を任されていた。 2年近くを要した籠城戦は、三木の干殺しと言われた秀吉の兵糧攻めにより、最終的には別所一族の切腹と引き換えに城兵の命を助けることで決着をみた。

正則のはじめの禄高は200石であったが、21歳となった天正10年(1582年)のときに本能寺の変が勃発し、その後は秀吉に従って謀反人の明智光秀を討伐するために山崎の戦いに参加。勝龍寺城を攻撃した軍功により、300石を加増されて500石となっている。

秀吉政権下で功を重ねる

信長死後、秀吉は織田家重臣筆頭だった柴田勝家と対立して互いに派閥を形成し、天正11年(1583年)に織田家の覇権を賭けた賤ヶ岳の戦いが勃発。正則はこの戦いで大功を立て、勇名をはせた「賤ヶ岳七本槍」の中でも突出して5000石の恩賞を得ている。
なお、「賤ケ岳七本槍」は、正則に加え、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明の7人を指すが、『一柳家記』によると、14人の若手武将が武功を挙げたとの記録がある。また、正則は「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言ったエピソードもある。

以後、秀吉は天下人への道を突き進むことになり、正則も秀吉に従って多くの軍役をこなしていくことになる。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い天正13年(1585年)の紀州征伐と四国征伐、天正14-15年(1586-87年)に薩摩島津氏と争った九州平定戦、そして北条を滅ぼした天正18年(1590年)小田原征伐というように、正則は秀吉の主だった天下統一の合戦に従軍している。

文禄元-2年(1592-93年)文禄の役では五番隊の主将として渡海。2度目の朝鮮出兵となった慶長2-3年(1597-98年)慶長の役には参戦しなかったものの、その後の大規模な朝鮮出兵計画には石田三成増田長盛らとともに軍勢の大将に抜擢されていた。しかし、秀吉が没したために朝鮮出兵計画は中止し、日本軍は撤兵することとなった。

秀吉亡き後、正則は徳川家康の昵懇大名の一人となる。豊臣政権五大老のトップだった徳川家康は天下をとるため、秀吉の遺命に背いて諸大名らとの婚姻関係を結んでいったが、正則もまた、養子にしていた姉の子・正之と、家康の養女・満天姫と婚姻させている。
一方、家康の専横を防ぐべく、前田利家や石田三成らがこれに反発して豊臣家中は分裂状態に。慶長4年(1599年)に前田利家が没すると、正則は加藤清正や黒田長政らとともに、かねてから険悪な関係だった石田三成を襲撃する事件を起こしている。

慶長5年(1600年)、こうして勃発した関ヶ原合戦では、正則は徳川軍の先鋒を担い、戦後は功をあげた恩賞として安芸と備後の49万8千石の大封を与えられて、広島藩を確立した。

正則は家康の昵懇大名ではあったが、主筋は秀吉であることを忘れずにいて、慶長13年(1608年)豊臣秀頼が病いに倒れた際には見舞いに駆けつけている。しかし、加藤清正や浅野長政などの豊臣恩顧大名が相次いで死去すると、正則の状況は暗転していくことに。
徳川と豊臣の大決戦となった慶長19-20年(1614-15年)の大阪の陣では、一族の福島正守や福島正鎮は豊臣方の将として参戦。こうしたこともあり、正則は徳川幕府軍への従軍すら許されず、江戸留守居役を命じられている。

正則の人物像

ところで、正則の性格とはどんな感じだったのだろうか?
新井白石の「藩翰譜」によれば、正則は「心猛く行ひ暴くして人の命を断ること昆虫を殺とも思わず」、「悪行日々月々に超過して、安芸・備後の土民等、悉く虐政に苦み心もなし」と酷評されている。

表裏がなく剛毅果断な性格だった正則は、不正を働く者や命令に背く者には耳削ぎ鼻削ぎなどの残酷な刑を科したという。 このほか、次のエピソードからは短気な性格も伺える。

正則がまだ200石取りの貧乏武士であった頃からの家来に星野又右衛門と言う者がいた。ある時、この又右衛門の行いが正則の気に障り、正則はいきなり刀を抜いて成敗しようとした。驚いた又右衛門は我が家へ逃げ帰ると、女房に助けを求めた。女房がすぐ表へ出て、追い掛けて来た正則に対し、「殿様、あなたは二百石取りの時から、いちずに奉公してきた又右衛門を斬ってしまおうと言うのですか!」とたしなめると、「又右衛門が横着な事を言うので、ちと脅しつけてやろうと思い、追い掛けただけだ」と言って退散したという──。

こうした正則だが、一方で開明的な一面もあったようだ。

正則は公正な検地や国土・国産の開発、商業・貿易の振興にはきわめて熱心であった。また、広島城下にキリスト教会を建て、城下における入信者は毎年千人近くになったため、当時のイエズス会の宣教師の間では評判が良く、「日本イエズス会年報」には、「わが聖教を保護する未信徒の諸侯中、第一は安芸・備後両国の領主福島大夫なり。彼は前より我等に対し好意を表したりしが、本年は一層あきらかにその意向を示せり」と紹介されている。

これは、自国の港にスペイン・ポルトガルの商船を入港させ、貿易を盛んにしようと言う、正則の狙いがあったとみられるが、商業に熱心であった事は間違いない。

改易

家康死後の元和5年(1619年)6月2日、徳川幕府が正則を突如改易。台風による水害に見舞われた広島城を無断修復したことが、武家諸法度に触れたというのである。

正則と幕府の間でやりとりが行なわれて一旦は沙汰止みになったが、結局は2代将軍徳川秀忠が、安芸・備後50万石を没収。 信州川中島と越後魚沼郡4万5千石(高井野藩)に転封の命を下した。
徳川幕府にとって旧豊臣遺臣の正則が目障りだったというのが真相のようだ。肥後熊本の加藤清正と同様、心底から幕府に恭順的態度をとらない限り、遅かれ早かれ、改易の憂き目を見る事は免れなかった。正則は改易を伝える上司の前で両手を突き、「仰せの趣畏まって候。大御所世(家康)にましまさば、正則も申すべきことあれど、当代(秀忠)に向かいて今更とやかく申すべきこともなし」と答え、整然と落ち度無く、城を明け渡したという。

移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居。新所領に入ると、領内を巡視して農地の肥痩を考慮した新検地を行い、農民から感謝された。また、小布施(長野県上高井郡小布施町)で河川改修工事を行い、今に残る「太夫の千両堤」と言う史跡を残している。

元和6年(1620年)、正則に先立って忠勝が没すると、越後魚沼郡の2万5千石を返上。その4年後の寛永元年(1624年)に正則も没した。享年64歳であった。
なお、正則の死後、残った信州川中島の2万石も幕府に収公されている。その理由は、正則の死後、正則家臣が幕府の検死を待たずに遺骸を荼毘に付したからだとされる。正則の家臣が検死を待たなかったのは、正則が自殺だったからとも言われているが、その最期は謎に包まれている。





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