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「黒田長政」知略の父・官兵衛とは一線を画す、武勇に優れた将。

黒田長政の肖像画
黒田長政といえば、秀吉の天下統一を知力で支えた黒田官兵衛の嫡男で知られる。
いつの世もそうだが、世間的に認められた親を持つと、その子供は反発を持ったり親とは異なる道を歩みたくなるもの。長政の場合もこれに当てはまるかもしれない。

長政は永禄11年(1568年)に播磨国・姫路城で誕生。幼名は松寿丸。

当時、黒田家は小寺政職に仕えており、小寺姓を名乗っていた。一方、中央においては織田信長が将軍足利義昭を誕生させ、将軍の後見人となって事実上の織田政権を樹立していたころである。

戦国時代において、主君に忠義を示す為に親族を人質として差し出す事はそれほど珍しい事ではなかった。わずか数年間で播磨国周辺の情勢は一変し、長政もまた人質時代を過ごすことになる──。

織田の人質時代

将軍権力を利用した信長は、やがて将軍義昭を中心とした反織田勢力との戦いを強いられたが、天正元年(1573年)にはこれらを撃破。将軍義昭は京から追放され、室町幕府は事実上滅亡となった。このように織田の勢力が西へ伸びていくと、小寺氏をはじめとした播磨の諸大名や国衆らは、織田・毛利の2大勢力の狭間に立たされた。すなわち、彼らは生き残りのために毛利・織田のいずれか一方への加担を迫られたのである。

こうした情勢の下、父・官兵衛は織田方に味方することを小寺政職に進言。小寺氏が織田派に属したことにより、長政は天正5年10月(1577年)に織田方への人質として羽柴秀吉に差し出されることになった・・。
秀吉と正室「おね」との間には子供がいなかった事もあり、秀吉の居城・近江長浜城で我が子のように可愛がられて過ごしていたという。だが、この人質時代に命の危機が訪れることになる。

父の謀反の疑いで、長政も処刑に!?

天正6年7月(1578年)、信長は西の大国・毛利氏との戦いの真っ只中にあったが、配下の荒木村重が背いて毛利方に付いたため、有岡城の戦いが勃発。ここで村重と懇意にしていた父・官兵衛は、説得の為に有岡城へと乗り込んだものの、これに失敗した挙句に土牢に幽閉されることになってしまう。「説得に行く」と言ったにも関わらず、何の連絡もないことに業を煮やした信長は、官兵衛の寝返りを疑い、秀吉に長政の処刑を命じるのである。

絶体絶命の危機に陥った長政だが、ここにおいて機転を利かせたのが、官兵衛とともに秀吉の参謀として活躍した竹中半兵衛だった。

竹中半兵衛の肖像画
竹中半兵衛の肖像画

半兵衛は秀吉にも内緒で密かに自分の居城・菩提山城の城下に長政を引き取って家臣の家に匿わせた。そして信長には長政を実際に処刑しているように見せる為、別の子供の首を用意したとも言われている。その後、天正7年(1579年)の有岡城の陥落時に官兵衛も救出され、寝返りの疑念がようやく晴れたことで、長政も同時に姫路に帰郷した。長政12歳のときであった。

なお、官兵衛が救出された時、信長は長政の処刑を命じた事を心底悔いたといい、半兵衛の機転で生きていたことを知った際には涙したとも伝わる。ちなみに半兵衛は播磨三木城の包囲戦に参陣しており、有岡城の陥落や官兵衛が救出されたことを知ることもなく、陣中で病没している。

以後、長政は父・官兵衛とともに秀吉に仕え、15歳となった天正10年(1582年)の冠山城の戦いで初陣を飾ったとされている。この戦いは秀吉による水攻めで有名な備中高松城の戦いの前哨戦であり、その後まもなく勃発した「本能寺の変」は広く知られているであろう。

父とともに秀吉に仕え、武功をたてる

信長死後、織田家中は羽柴秀吉派と柴田勝家派に二分されたが、長政ら黒田家は当然のごとく秀吉に与しており、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでの勝利にも貢献している。その後も、長政は父・官兵衛に付き従って秀吉の天下統一に向けた合戦の大半に従軍し、多くの功を重ねていった。

黒田父子は天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいては大坂城の留守居を務め、徳川方に味方した長宗我部水軍と戦っている。その後は、翌天正13年(1585年)の紀州征伐・四国攻めにも参加。天正14-15年(1586-87年)の九州征伐では、戦後に父子の功績として豊前国中津12万5千石が与えられている。長政自身はこの九州平定戦で日向国の財部城攻めに功があったようだ。

豊前国の平定戦

九州平定は成ったものの、その統治は容易に進まなかった。同年7月には、肥後国の統治を任された佐々成政が、すぐに検地を実施しようとしたことで肥後国人一揆を招くことに。一方で豊前国の大半を与えられた黒田家もこのあおりを受けた。

父・官兵衛は軍勢を率いて鎮圧に向かわざるを得なくなり、豊前国の政治は長政に一任されることになった。しかもこのタイミングで不穏な空気に包まれていた豊前国内では、この肥後国人一揆に呼応する形であちこちで国人が蜂起したのである。

このときの長政の武功が伝わっている。

長政は10月1日に罵ケ岳城から出陣し、抵抗する姫隈城を包囲するが、敵の後詰め2~3干の軍勢に攻められて前後に敵を受けるという窮地に陥った。長政は軍を二手に分けて1隊を城下に残し、自ら率いるもう1隊で後詰めと交戦したという。
このとき、「もしこの一揆に敗北すれば、父(=官兵衛)が努力して手に入れた豊前が治められないことになり、黒田家の面目も丸つぶれとなって、自分自身を含めてお前たち(=長政の家臣)の生活が成り行かなくなる。まさに浮沈のいずれかになる決定的な時だ。命の限り奮戦して大将の首を取るまで酔って掛かれ!」と家臣らを励ましたという。(『黒田家譜』)

こうした作戦により、官兵衛が不在にもかかわらず、長政は後詰めを討って最終的に姫隈城も降伏させることに成功したのである。

しかし、まだ有力国衆の城井鎮房を討つという大きな仕事が残っていた。
城井鎮房は秀吉から伊予国へ移封を命じられていたが、これに従わずについには挙兵して城井谷城に籠城、豊臣政権に徹底抗戦の構えをとっていた。これに対し、長政らは武力による討伐を行うが、地の利を生かしたゲリラ戦法に手を焼いたらしい。結果的には付け城を構築して持久戦に持ち込み、年末までにようやく降伏させている。

なお、降伏後も城井谷城から退去しない鎮房に対し、秀吉は黒田家に殺害を命じている。翌天正16年(1588年)、長政は鎮房を中津城へ招いて、酒宴の席で謀殺したのである。

2度の朝鮮出兵で渡海

天正17年(1589年)には官兵衛の隠居にともなって家督を譲られ、同時に従五位下、甲斐守に叙任。

秀吉の天下統一後にはじめて行なわれた朝鮮出兵、すなわち文禄元-2年(1592-93年)の文禄の役では、長政は三番隊の指揮官として家臣の後藤又兵衛と共に渡海して多くの功を立てた。しかし、最終的に日本軍は形ばかりの和平を結んで撤退を余儀なくされている。再出兵となった慶長2-3年(1597-98年)の慶長の役にも出兵し、長政は加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成している。

この朝鮮出兵を通じて、長政は秀吉子飼いの将である加藤清正や福島正則らとの親交を深めると同時に、吏僚の石田三成小西行長との確執を鮮明にしていくことになる。

関ヶ原以降

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、豊臣秀頼を中心とした豊臣政権の存続を目指す石田三成ら文治派と、五大老の徳川家康との対立が露呈。翌慶長4年(1599年)前田利家が没すると、長政は文治派との対立から加藤清正や福島正則と共に石田三成を襲撃している。

そして、長政は慶長5年(1600年)の関ヶ原決戦では重大な役割を果たしている。 家康率いる東軍に属して最前線で石田方随一の武将・島左近を討ちとったり、父官兵衛の得意としていた説得工作を行って小早川秀秋吉川広家などを寝返らせた。この活躍により、戦後は一番の功労者として家康から御感状とともに、豊前国から筑前国名島へ52万3000石の加増移封となり、大大名となるのであった。

初代福岡藩主に

慶長6年(1601年)には筑前で父・如水(官兵衛)とともに福岡城の築城を開始して福岡藩を成立。以後の長政は初代福岡藩主として家臣の統制に苦しむも、福岡博多の産業の奨励に務めるなどし、今でも名産品として残る博多人形や博多織などを復興させている。

なお、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として江戸城の留守居役を務め、代わりに嫡男の忠之を出陣させている。また、続く慶長20年(1615年)大坂夏の陣には参戦した。

元和9年(1623年)に京都報恩寺で死去。知謀の将だった父・官兵衛と比べ、長政は武勇に優れていたが、父譲りの知力も併せ持った文武両道の武将であった。





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