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「黒田官兵衛(如水)」稀代の策士!主君の秀吉にさえ恐れられた男

黒田官兵衛の肖像画
秀吉に仕えた軍事参謀として、竹中半兵衛と共にその名を知られる黒田官兵衛。NHK大河ドラマで取り上げられるなど、今なおその名を語り継がれる武将の一人である。戦国の世で見せた数々の奇策や頭の良さを伝える印象的なエピソードなど、話題に事欠かない人物と言っても良いだろう。
黒田官兵衛とは一体どんな人物であり、天下統一を目指す乱世においてどのような人生を送ったのか。今一度振り返ってみよう。

官兵衛誕生――父は黒田職隆

黒田官兵衛が誕生したのは、天文15年11月29日(1546年)といわれている。通説では父・黒田職隆と、母・岩 の間に生まれた嫡男となっている。

職隆は、その父である黒田重隆と共に小寺政職に仕えたことで知られている。小寺政職の敵であった香山重道の首を打ち取ったことがきっかけとなり、小寺政職は黒田氏を非常に厚遇するようになった。
小寺政職の命により、職隆は姫路城の城代に就任したといわれている。さらに自身の養女である明石宗和の娘・岩を嫁がせ、小寺姓を名乗らせている。こうして結び付いた父と母の下に生まれたのが、官兵衛というわけである。

官兵衛の母・"岩" は育児を乳母に任せず、自分自身で積極的に携わったと言われている。歌道に精通した母と、茶道に精通した叔父(黒田休夢)の影響を受けたようだ。すくすくと育った官兵衛だが、14歳のときに母親と死別。その後はより一層文学の世界に没頭したと伝わっている。しかしこうした経験がもとになり、後の世で、「戦国の時代においても、連歌や茶道をたしなむ文化人」として高く評価されるようになったのである。

ちなみに「官兵衛」という名前は通称であり、実際の名前は、当初「祐隆」だったともいわれている。そののちに「孝隆」、「孝高」と改名。現在でも知られているのは、「黒田官兵衛」もしくは「黒田孝高」だろう。本記事においては「官兵衛」で統一することとする。

鮮やかな初陣、そして姫路城代へ

永禄4年(1561年)になると、官兵衛は父と同じように小寺政職の近習となり、主君のために仕えるようになる。初陣は近隣の豪族共が攻めてきたときに自ら討伐に名乗り出たといい、父と共に出陣して見事に豪族共を蹴散らしたという。当然その能力は高く評価され、小寺政職より重宝がられることになった。

永禄10年(1567年)、22歳になった官兵衛は、黒田家の家督を譲り受け、さらに家老の職につくことになった。また同時に、小寺政職の姪である「光(てる)」との結婚を発表。姫路城代となった官兵衛は、その後ますます活躍を重ねていくことになる。

ここまでの人生は、まさに「純忠満帆」といって良いだろう。官兵衛が「生涯でただ一度も負けなかった武将」としてその名を知られていくのは、これからのことである。

圧倒的に不利な状況の中、勝利を収めた青山・土器山の戦い

永禄12年(1569年)には、官兵衛の人となりを後世に伝える、非常に印象的な戦が起きた。それこそが青山・土器山の戦いである。

戦の流れは以下───。

官兵衛が城代を務める姫路城に、播磨国龍野城主であった赤松政秀が攻め込んできた。織田信長の介入により、赤松政秀が率いた兵の数は3,000人にも及んだと言われている。一方、敵を迎え撃つ黒田側の人員はわずか300人。
その兵力差は誰の目にも明らかであったが、城に攻め込まれては一溜まりもないと考えた官兵衛は、あえて「野戦」という奇襲作戦をとった。青山の地で赤松軍の前に出撃したわずか300の黒田軍は、奇襲によって赤松方を撤退させることに成功したのである。(青山の戦い)
だが、赤松政秀もこれで簡単にあきらめたわけではない。その後、体制を整え直してから再度出陣。官兵衛は夢前川東岸にある土器山に布陣し、これを迎え討った。このときは叔父の井手友氏が討たれるなど、窮地に陥った黒田軍だが、味方の助けもあってかろうじて撃退に成功。出陣した兵の大半が死傷するという甚大な被害を受けながらも、官兵衛の奇策によって黒田軍は勝利を手にしたのである。(土器山の戦い)

このように、圧倒的な戦力差がありながらも2度に渡って敵を撃退した官兵衛。どちらの勝利も彼の「軍師としての才覚」がなければ、成し得なかったことだろう。

いよいよ歴史の表舞台へ――いち早く「織田派」を進言

天正3年(1575年)頃になると、官兵衛が城代を務める姫路城の周辺は徐々に慌ただしくなってくる。播磨の国の西方に勢力を張る毛利輝元と、近江の国から徐々に勢力を拡大して迫る織田信長――。

両者の間に所領を持つ諸大名や国衆らは、どちらの味方につくべきかの決断を迫られていたが、ここでも官兵衛は抜群の才覚を発揮する。

折々で信長の有能ぶりに触れていた官兵衛は、誰よりも早く「信長につくべきである」と、主君・小寺政職に進言したのだ。それと同時に官兵衛は、信長とのパイプ作りにおいても高い能力を発揮する。信長がいる岐阜城へと赴き、そこで初めて謁見。そして取次ぎ役であった羽柴秀吉、すなわち後の主君とも初対面を果たしたのである。

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小寺氏を説得した官兵衛は、ここから織田派の一員として活躍。特に有名なのは、天正5年5月(1577年)に起きた英賀の戦いである。

このとき、播磨国へ侵攻する毛利氏が約5千の水軍で播磨の英賀に上陸。これに対し、小寺方の兵力はわずか5百であり、その戦力差は10倍という圧倒的不利な状況に立たされていた。しかし、この劣勢を覆すために官兵衛が策を講じ、これが見事にハマるのだ。

敵の水軍の上陸直後は、疲労と体制が整っていないと判断し、官兵衛はすぐさま奇襲を仕掛け、さらに近隣の農民の手を借りて旗を掲げさせた。こうすることで、小寺方の兵数を「水増し」して見せることに成功。実際にはわずかな兵数であったにも関わらず、毛利方は援軍がきたと勘違いして撤退していったのである。

この戦いは信長にとっても一つの大きなチャンスとなった。一気に西方へと攻め込む気運が高まり、羽柴秀吉を指揮官として、毛利軍を追い詰めていくことになる。この流れの中で、秀吉と官兵衛の距離は自然と接近。官兵衛の知力と奇策は秀吉に高く評価され、さまざまな戦において、秀吉の軍師として活躍していくこととなる。竹中半兵衛と並び、秀吉の「双璧の軍師」として、目覚ましい活躍を遂げた。

1年の幽閉、そして救出。小寺姓から黒田姓へ

官兵衛が秀吉と共に、信長のもとで働くようになってからも、たびたび離反が起きた。その中の一つで、官兵衛の人生に大きく関わったのが、摂津有岡城の荒木村重の謀反である。当時、村重は摂津地方一帯の指揮を任されていた人物であった。信長からの信頼も厚かった人物だけに、その衝撃は計り知れなかったものと思われる。

官兵衛にとってさらに驚いたのは、主君の小寺政職までもが、その離反に便乗したことである。官兵衛は村重を説得するために有岡城へと出向くものの、その願いはかなわなかった。横たわることすらできないほどの劣悪な環境の牢屋へ幽閉されてしまうのだ。

官兵衛が救出されたのは、その後1年も経過してからのことであった。織田方の攻撃にとうとう音を上げた村重は単身で逃亡し、有岡城は開城となった。このときに官兵衛は栗山善助に救出されたものの、長い幽閉生活における影響は大きかった。頭部や足に大きな傷を負ったと言われ、それらの傷は生涯癒えることはなかったらしい。

天正8年(1580年)には、信長の息子・信忠の手で、とうとう御着城が陥落となり、小寺政職は毛利領へと落ち延びていった。大名としての小寺家が滅んだことで、以降の官兵衛は「小寺姓」ではなく「黒田姓」を名乗るようになったと伝わっている。信長より1万石を与えられ、官兵衛は新たな道を歩みだした。

本能寺の変をきっかけに秀吉との関係に異変!?

1年の幽閉のさなかも、信長や秀吉への忠誠心を失わなかった官兵衛。特に秀吉との関わりは、より強固なものへと変化していった。織田家の力をより強くするために、官兵衛の奇策をもって、さまざまな戦いで勝利を収めていったのである。

しかし、そうした関係にも、やがて変化のときが訪れる。そのきっかけになったのが、あの有名な「本能寺の変」である。

本能寺の変といえば、言うまでもなく「明智光秀による史上最大のクーデター」である。手にかけられたのは、他でもない織田信長であった。本能寺の変が起きたとき、秀吉と官兵衛は備中高松城の水攻めの最中であった。あと一歩というところで、とてつもなく大きな事件が起きたのである。

さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心のままに成たり

上記は信長の死の報告を受け、官兵衛が秀吉にかけたとされる有名な言葉である。信長の突然の訃報に対して言葉を失う秀吉。それが当然の反応だったと言えるだろう。しかし、官兵衛は違った。その姿を見た官兵衛は、秀吉に対して「これでいよいよ、あなたが天下人ですね」という意味の言葉を発したのである。

その後、秀吉と官兵衛はあっという間に毛利氏と和睦を結び、備中高松城における戦を終了させると、最大の敵となる明智光秀を討伐するための戦いへと移っていった。
大きな時代のうねりの中で、黒田官兵衛が果たした役割は、非常に大きかったと伝わっている。しかし重要な場面で秀吉に発した「一言」がきっかけとなり、秀吉の心には、初めて官兵衛に対する疑念が生まれたとも言われている。

「信長の死」という誰もが戸惑うような大きな出来事が起きたときに、他の誰よりも早く状況を見極め、未来へと目を向ける姿――。そんな官兵衛に対して、秀吉が「こいつは油断できないやつだ」と感じたのも、当然のことだったのかもしれない。

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豊臣政権と官兵衛

明智光秀を討ち、徐々にその勢力を増していく秀吉勢。当然のことながら官兵衛が果たす役割も大きくなっていった。天正11年(1583年)には、2万1千石の領地を治める大名へと成長。合戦においても類まれな才覚を発揮し続けていた。

官兵衛、キリスト教へ入信

天正12年(1584年)には領地は5万石へと加増。さらに天正13年(1585年)には秀吉の四国攻めでも大功をたてた。そしてこの頃、官兵衛が下した大きな決断の一つが、「キリスト教への入信」である。
とはいえ、天正15年(1587年)に秀吉が「バテレン追放令」を出すと、官兵衛はただちに棄教。あまり熱心な信者ではなかったとも伝わっている。ただ、キリスト教の考え方や作法が、官兵衛の人生に強い影響を与えたことは言うまでもない。

豊前国主へ。やがて隠居・出家の身に

豊臣政権による九州平定にも深くかかわった官兵衛は、天正15年(1587年)豊前国の12万石を与えられた。時を同じくして中津城の築城を開始している。翌年には、無事に中津城が完成し、本拠地とした。

とはいえ、官兵衛が秀吉から与えられた領土は、それまでの働きに対してあまりにも小さなものだったと言われている。秀吉にとって官兵衛とは、「心強い味方」であると共に、「いつ自分を裏切ってもおかしくはない相手」だったのであろう。こうした流れを断ち切るためなのか、官兵衛は天正17年(1589年)、わずか44歳という若さで息子・長政に家督を譲り、隠居している。隠居後は「如水」という名を使った。
しかし実質的には秀吉の側近としての仕事は変わらず、名ばかりの隠居であったようだ。

天正18年(1590年)には、小田原の戦いにて北条氏を説得。小田原城の無血開城へと導いている。文禄元年(1592年)からは、秀吉の企てた朝鮮出兵にも参加。しかし思うように采配を振るえず帰国に至ったことが秀吉の怒りを買い、剃髪して出家。その後の人生では、「如水軒円清」を名乗った。

秀吉死去。その後の官兵衛は……?

慶長3年(1598年)には、秀吉が死去。その後の官兵衛(如水)は、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に加担して暗躍。大きな功績を残した息子・長政と共に、徳川から褒美の話が出るが、官兵衛(如水)はこれを辞退。その後は福岡城の御鷹屋敷や太宰府天満宮に作った草庵にて、静かな隠居生活を送ったとされている。

官兵衛がその一生を終えたのは、慶長9年(1604年)のことであった。京都伏見藩邸にて、59歳でその生涯を終えている。

命が消えるその瞬間まで、周囲や息子への思いやりを忘れなかったと伝えられる官兵衛。「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」という辞世の句を残して、この世を旅立った。
辞世の句の意味は、「もうこの世に思い残すことはない」というもの。その人生の中で、さまざまな苦労を背負い込んできた官兵衛だからこそ、死を間際にした率直な思いであったのかもしれない。

官兵衛亡き後、その亡骸が埋葬されたのは、福岡市にある崇福寺であった。黒田家の菩提寺である崇福寺には官兵衛やその息子・長政などが祀られている。官兵衛の墓石でもある石塔は、現在でも残されており、自由に参ることが可能だ。実際に石塔の前に立つことで、より一層官兵衛の人生に思いを馳せることができるのではないだろうか。





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