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「おね(のちの北政所、高台院)」天下人・秀吉を生涯支えた正室

高台院(おね)の肖像画
天下人・豊臣秀吉の妻で知られる「おね(高台院)」。秀吉の天下統一を支えた手腕は確かだった。

秀吉との結婚

豊臣秀吉の正室・高台院は意外に謎の多い人物である。まず生まれた年が分からない。歴史は女性に関する記録が少なく、有名な女性でも生年不詳なのはよくあるが、高台院はその呼び名もいくつかの説がある。「おね」が最もよく知られていて、ほかに「ねね」「ねい」などもあり、確定するには研究の深化を待つ必要があるだろう。ともあれ、晩年の名乗りではあるが高台院は間違いのない呼び名なので、ここでは彼女を "高台院" と呼びながらその生涯を振り返ってみる。

高台院は通説では天文17年(1548年)頃、尾張の国に生まれた。父は杉原定利、母はのちに朝日殿と呼ばれた女性で、永禄4年(1561年)8月の秀吉(当時の名は木下藤吉郎)との結婚を朝日殿に反対されたために、叔母の嫁ぎ先である浅野長勝の養女となってそこから嫁いでいる。無理を押した結婚だったため、式は質素で参列者はのち加賀百万石の祖となる前田利家とその妻 "おまつ" などごく少数だったというエピソードは、一次史料に見える話ではないもののよく知られているだろう。当時珍しい恋愛結婚だったという。

秀吉の留守を預かる

秀吉とは10歳以上年の離れた夫婦だと見られているが、夫唱婦随どころではなく、秀吉の出世に合わせた独自の活躍を高台院は繰り広げていく。

天正2年(1574年)に秀吉が城主となった近江長浜城に入り、戦場を行き来する夫に代わって長浜の留守を預かるようになった。残されている史料から察するに、妻として家政を見ただけでなく、領主権を代行していたようである。また長浜時代には、秀吉との実子がいない代わりに親類縁者の子供達を集めて育てている。この中から秀吉の遠縁に当たる加藤清正福島正則が出ており、戦場の夫を支える後方支援を十分にこなしていたと言えるだろう。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際にも長浜城にいたらしく、明智光秀方の攻撃を避けて領内の山寺に避難したと伝わっている。

豊臣政権の重鎮

秀吉が織田信長の後継者となって天下統一を進めると、高台院は大坂城に移り、天正13年(1585年)には秀吉の任官に合わせて北政所の称号を得ている。北政所の呼び名は鎌倉時代の北条政子なども当てはまり、高台院だけのものではないものの、当時すでに「北政所=高台院」と強く結びつけられるほど、彼女のイメージは強大になっていた。

大坂城にあっても豊臣家の家政を担当したほか、秀吉の側室たちや各武将から送られてくる人質たちの面倒をこまめに見ている。人質の中の一人がのちの江戸幕府二代将軍・徳川秀忠で、敵味方の分け隔てなく面倒を見たことから、高台院と秀忠の関係はのちのちまで良好のまま続いている。

天正16年(1588年)には後陽成天皇より聚楽第行幸の功として、女性としては異例の従一位に叙せられた。この頃、高台院単独の領地だけで1万石以上を数えており、その威勢は秀吉の妻の立場を超えて、豊臣政権の重鎮と呼ぶべきものだった。現に文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵では、前線への補給物資輸送の一部を高台院が担当しているのが、史料から分かる。

秀吉の死と高台寺建立

慶長3年(1598年)8月18日に夫秀吉が病死すると、しばらくは秀吉の側室で後継者秀頼の母である淀殿と協力していくが、関ヶ原に当たっては中立的な立場を取った。とはいえ戦時は危うかったようで、関ヶ原合戦の二日後の慶長5年(1600年)9月17日には、実兄木下家定の護衛を受けながら慌てて公家の屋敷に逃げ込んだという記録がある。

関ヶ原合戦の1年ほど前に大坂城を出て京都新城に移り住み、5年ほどを過ごしたのち、徳川家康の許可と援助を受けて京の東山に高台寺を建立した。亡き秀吉と母朝日殿の菩提を弔うための寺で、屋敷も高台寺の前に構えている(この地が現在の圓徳院で、高台寺と合わせた人気の観光ルートになっている)。この間に豊臣秀頼と家康の孫娘千姫の婚姻が実現し、それを見届けたのを契機に落飾した。以降、ここまで使ってきた高台院の名で呼ばれていく。

大坂の陣を見届ける

少しずつフェードアウトするように権力の最前線から退いていった高台院だったが、豊臣家の行く末には関わりを持たない訳にいかなかったろう。しかし秀吉の死と関ヶ原からすでに15年以上が過ぎた段階では、高台院の及ぼせる影響力は小さかった。

慶長19-20年(1614-15年)の大坂の陣の際は、幕府の意向を受けた甥の木下利房が護衛と監視を兼ねて高台寺周辺に陣し、京都から高台院を動かさなかった。文字通り高台に建つ高台寺の望楼からは大坂方面が見渡せたようで、夏の陣で大坂城を包んだ炎が夜空を紅く照らす光景を、高台院たちは京都から見届けたとも伝わっている。

以後も高台寺に住まいし続け、 寛永元年(1624年)9月6日に同地で没した。享年は生年から逆算すると、76歳・77歳・83歳など諸説あってはっきりしないが、高台寺がそのまま墓所となった。なお、遺骨は霊屋の木造の下に収められており、現在は重要文化財に指定されて大勢の観光客が訪れる場所になっている。





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