丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大谷吉継」三成と双璧!?豊臣政権随一の奉行

大谷吉継のイラスト
大谷吉継は戦国時代に名を馳せた日本の戦国武将の一人。越前国敦賀城城主。刑部の通称でも知られる。
近江国(滋賀県)出身、父は大谷吉房説が有力。母は東殿。子に大谷吉治や真田信繁の正室である竹林院がいる。 小姓として豊臣秀吉に仕える。秀吉の家来として敦賀城主にまで上り詰め、秀吉亡き後は徳川家康と石田三成との間をとり持つ立場で紛争するも、最終的には石田側(西軍)として関ヶ原に従軍。敗戦と共に介錯し命を落とす。

出生から青年期

吉継の誕生年は永禄元年(1558年)前後が通説とされているが、ハッキリしていない。母親は東殿、父親は大谷吉房説が有力とされるが、これも確証はない。

幼少期を近江で過ごし経緯・時期いずれも不明ではあるが、羽柴秀吉の小姓として仕えた。上記の事実より、大谷吉房が実父であれば吉房が浅井家滅亡の後織田家に仕えたため、その家臣であった秀吉に親子共に従属した可能性が高いと考えられている。吉継の名が歴史上の記録として初めて確認できるのは、天正5年(1577年)の秀吉の播磨国攻略の際、秀吉の御馬廻り衆の一人としての記載である。

馬廻り衆は大将の側近であり、重要な役職であることから、この時点で吉継が秀吉からの高い信頼を受けていたことが伺える。 その後、翌天正6年(1578年)の三木城攻め、および天正10年(1582年)の備中高松城攻めの際にも、同じく馬廻り衆としての記載が確認されている。
なお、この間の天正9年(1581年)には(異説あり)嫡男の大谷吉治(吉勝)が誕生している。長女の竹林院もこの頃の出生と言われているが定かではない。

一国一城の主へ

織田信長明智光秀の謀反によって京都の本能寺で命を落とすと、秀吉は中国攻めを切り上げて光秀を討ったことで信長家臣団の中での発言権は以前にも増して大きくなっていた。そして日に日に織田家筆頭家老出会った柴田勝家との対立が決定的になっていく。 そして勃発した賤ヶ岳の戦いで吉継は同郷で苦楽を共にしてきた石田三成と共に活躍。大きな武功を立てた。 資料「一柳家記」には大谷吉継や石田三成を含めた羽柴家所属の14人の若手武将が活躍し、最前線で大きな武功を挙げた旨が記録されている。

『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』(落合芳幾画)
『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』(落合芳幾画)

天正13年(1585年)、秀吉の関白就任に伴って、自身も「従五位下刑部少輔」に叙任。刑部と呼ばれるようになる。そして同年の紀州征伐や翌年、石田三成の配下として従軍した九州征伐の活躍が認められ、越前国敦賀郡2万石余りを拝領。敦賀城主となる。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐の際の加増により「敦賀5万石」の大名となった。

文禄元年(1592年)から始まった秀吉の朝鮮出兵に際しては、奉公衆の一人として石田三成らと共に渡航、朝鮮将校の指導や明との和平交渉などに尽力した。最終的に決裂した和平において、石田三成らと共に「大都督」の官位を受ける予定であったという。帰国後、文禄3年(1594年)直江兼続宛に送った書状には病気のため花押ではなく印判を使ったことへの謝罪を述べていることから、持病であったというハンセン病の進行の可能性が伺える。

映画やドラマ等では、晩年吉継が頭巾を被って素顔を隠しているビジュアルで登場する機会を目にすることが多いが、実際の当時の歴史資料にそのような記載はなく、江戸時代に想像で書かれたものが現在に伝来していると想像される。しかしながら吉継自身が何らかの重篤な病に侵されていたのは事実であり、関ヶ原の戦いに赴いた際には病状はかなり悪化しており、自力で立って歩くことは叶わず、木製の台の上から軍の指揮を行ったと言われている。

また、三成との友情を表すエピソードとして、天正15年(1587年)に大阪城で行われた茶会において、吉継が口をつけた茶碗を病気の感染を恐れた他の諸将が使うことをためらう中、三成だけがその茶碗を平然と使い、吉継は三成のこの行動に大きな感銘を受け2人の友情はより深いものになったという逸話も残っている。

関ヶ原合戦での最期

慶長3年(1598年)の秀吉の死後、五大老であった徳川家康と石田三成の対立が激化。慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、討伐軍を組織。家康との良好な関係を保っていた吉継も参加すべく決起。家康と険悪な関係にあった三成の佐和山城に立ち寄り説得を試みる。しかし逆に家康討伐の挙兵を持ちかけられる。一時は断るも最終的には三成に賛同し、西軍に一族を挙げて組した。

同9月15日、関ヶ原にて開戦。西軍東軍戦力に差はなく、開戦当初は西軍有利に戦況は推移したが、西軍の小早川秀秋軍約1万5000の裏切りによって形勢は逆転。吉継は裏切りに備えて兵を配置していたこともあって一時は善戦するも配置していた兵のうち、脇坂・朽木・小川・赤座の4隊約4200の兵も追加で東軍に寝返ってしまう。これにより完全に包囲されてしまった吉継の本隊は最終的に壊滅。吉継自身も戦地で介錯し自害。享年は三十代後半から四十代前半。吉継の首は部下の手によって関ヶ原に埋められ東軍に見つかることはなかったと言われている。墓所は居城のあった福井県の敦賀永賞寺に石塔があり、岐阜県の関ヶ原町にも石塔が設けられてあり二箇所に供養塔が存在している。

大谷吉継という人生

現存する歴史資料を見ても不明瞭な点が多く、その人物像が今一つはっきりとは見えてこない戦国武将大谷吉継。 しかしながら、生涯の盟友であった石田三成との関係性や家臣として仕えた豊臣秀吉に対する忠義は、「義」を重んじる一人の男としての人物像を後世にしっかりと伝えている。





おすすめの記事

 PAGE TOP