丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「仙石秀久」戸次川での失態で改易されるも、のちに異例の復活を果たす。

仙石秀久の肖像画
ヤングマガジンでおなじみ、「センゴク」の主人公として一躍著名な武将となった仙石権兵衛秀久。 秀吉の家臣として「戦国史上最も失敗し、そして挽回した男」の生涯とは?

秀吉最古参の家来

仙石秀久のイメージといえば、島津攻めの九州征伐のときの大敗を招いた人物として、評判は良くないようだ。果たして彼の実像も悪評どおりなのだろうか?

秀久に関する史料は少なく、『改選仙石家譜』という小諸藩の編纂史料に頼っているところからすると、なかなか実像を探るのは難しいかもしれない。特に本能寺の変以前の記録に関しては極端に少ない。それを踏まえた上で秀久の生涯を追ってみることにしよう──。

土岐氏の支流

秀久は天文20年(1551年)、仙石久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩で誕生したとされる。通称は権兵衛。

仙石氏は、藤原北家の流れを汲む一族であり、仙石久重の代に、美濃国の守護で知られる美濃土岐氏の血も混ざったため、それ以降は土岐氏一門を称したと伝わる。秀久の父・久盛は美濃土岐氏の家臣であったが、秀久の誕生当時は斎藤道三の下剋上によって土岐氏が滅んでいたため、道三配下の将であったようだ。

美濃斎藤家といえば、道三の娘・濃姫が尾張の織田信長に嫁いで、織田家と同盟関係になったが、弘治2年(1556年)の道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三が戦死して以降は、敵対関係に入っている。
その一方、幼少の秀久は、四男だったこともあって越前の萩原国満に養子に出されていた。その後、家督を継いで道三の孫にあたる斎藤龍興に仕えたとみられる。なお、家督相続の理由に、「秀久の兄たちが病気や怪我で相次いで亡くなったため、父久盛に呼び戻された」という内容が散見されるが、これは小説でしか確認できてないので、フィクションの類であろう。

信長に臣従

14歳となった永禄7年(1564年)の時点では、信長に仕えて木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の配下の将になったという。この頃の信長は、ちょうど美濃攻略で斎藤氏を圧迫していた頃にあたっているので、この話はつじつまが合っている。
また、同年には斎藤家臣の竹中半兵衛らが、主君の斎藤龍興を諌めるため、斎藤家の居城である稲葉山城乗っ取りの事件を起こしており、半年間も占拠していたというから、斎藤家が没落傾向にあったことも伺える。

なお、信長に仕えるとき、その勇壮な風貌を信長に気に入られて黄金一錠を与えられ、秀吉配下に命じられたという。当時の秀吉はまだ重臣の立場になく、配下も蜂須賀小六などの野武士や半農兵がほとんどであったから、秀久のような由緒ある武士の家臣はとても貴重であっただろう。

秀吉の出世街道を一緒にひた走る?

以後、秀久は秀吉最古参の家臣として、各地を転戦していくことになる。

元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、これに従軍して浅井家臣の山崎新平を討ち取ったといわれる。この頃より、秀吉は近江支配体制の一角として横山城に入り、浅井・朝倉連合や本願寺勢力との戦いに奔走しているので、秀久も付き従ってこれらの合戦に参加したと思われるのだが、史料上はしばらく姿を消している。

その後、天正元年(1573年)に秀吉が浅井を滅ぼした功績で北近江三郡を与えられ、横山城から長浜城に拠点を移すと、秀久も翌天正2年(1574年)に信長から近江国野洲郡に1千石を与えられたとみられる。また、この頃に柴家の家臣である野々村幸成の娘の本陽院を正室に、慶宗院という甲斐国の浪人の娘を側室に迎え、のちに合わせて10男6女を儲けている。

5千石の将へ

やがて秀吉が信長から中国攻めの命を与えられると、秀久もそれに従って、徐々に出世していったとみられる。
天正6年(1578年)には4千石を加増されてトータル5千石となり、また、翌天正7年(1579年)には神戸の茶臼山城主を任され、有馬温泉を統括する湯山奉行も兼任。秀吉の三木合戦にも参加したという。また、天正9年(1581年)の淡路侵攻では、黒田官兵衛らとともに淡路島に渡り、岩屋城・由良城を制圧するなど、淡路平定に貢献している。

ただ、こうした信長時代の秀久の活躍は、信長の一代記で知られる『信長公記』に一切登場しない。『信長公記』は信長家臣の太田牛一がその当時に記したものであるから、これに秀久の名が全く記されてないのには、少し疑念が残る。それだけ取るに足らない将だったということかもしれない。

淡路、次いで讃岐の大名へ

信長の死後、秀吉が山崎の戦い明智光秀討伐を行う一方、秀久は淡路国で光秀方に与した豪族らの鎮圧にあたり、淡路の再平定に貢献した。これにより、淡路国(淡路島)を与えられ、洲本城主となった。

天正11年(1583年)の4月、秀吉が賤ヶ岳の戦い柴田勝家との決戦を迎えるときも、秀久は勝家方の長宗我部元親の押さえとして、淡路入りを命じられている。そして奇しくも賤ヶ岳と同日となった4月21日には、四国の讃岐へ渡った秀久を総大将とする仙石軍が長宗我部軍と衝突。(引田の戦い
結局秀久は敗戦して淡路に逃げ帰り、その後は淡路島と小豆島の守備固めに専念したらしい。

天正13年(1585年)、長宗我部氏を降した四国平定戦では、秀久は喜岡城の攻略や木津城攻めに活躍し、戦後の論功行賞では讃岐一国を与えられて、高松城主に転じている。(『多聞院日記』など)

合戦の失態でまさかの改易。

そんな順調に出世を遂げていた秀久だが、転機が訪れる。

九州の島津討伐に向けて、秀吉から先陣役の軍監に任命された秀久は、3千もの兵士を率いて豊後国の府内に着陣。秀吉からは豊臣本軍がくるまで待機するようにいわれていたが、一向に合流しない本軍、そして島津家久隊と島津義弘隊の挟み撃ちに遭う危険もあったことから、秀久は独断で豊臣先鋒軍を動かして戸次川を渡った。そのときに島津家久率いる1万もの軍勢と遭遇し、そのまま戦闘となる。
これが天正14年(1587年1月)12月におきた「戸次川の戦い」の始まりである。

はじめは秀久ら豊臣先鋒軍が積極的に攻めたこともあって優勢だった。劣勢となった島津家久は撤退したが、秀久はこれを追撃して一気に決着をつけようとした。しかし、これは島津軍の仕掛けたワナであり、家久隊が撤退した先に潜んでいた伏兵により、逆に秀久らは壊滅的な被害にあい、撤退を余儀なくされた。

秀久は軍監役であり、撤退する軍隊を取りまとめなければならないのだが、その役目を真っ先に放棄して小倉城へと敗走。その後も防戦などを全くせずに20名程の家臣団と一緒になって讃岐まで退却。しかも、合戦前の軍議では秀久が今回の戦略を主張していたのである。この戦いで長宗我部信親十河存保が犠牲となって討死となった。

このときの失態について、秀久は以下のように評されている。

  • 「四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」(『豊薩軍記』)
  • 「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は、仙石の家来や兵士に他ならない。」(『日本史』)
  • 「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外に目がなかった。」(『日本史』)

上述のように散々に酷評されているが、『日本史』は、当時キリスト教宣教師だったルイス・フロイスが記した貴重な一次史料なので、リアルな評価といっていいだろう。

結局、秀久はこの失態によって秀吉の怒りを買うことになり、自国の讃岐を取り上げられ、高野山へ追放されることになったのである。

名誉挽回!のちに小諸藩主へ

改易後、しばらくは高野山でひっそりと暮らしていたが、京都や大坂に滞在していた時期もあったらしい。

そうした中、天正18年(1590年)に、豊臣政権による小田原征伐が開始されると、秀久は地元の美濃でかつての家臣を20名ほど集め、徳川家康の助けを借りつつ浪人衆として参陣したという。
自ら戦の先鋒を務め、小田原城の早川口攻めでは虎口の1つを占拠する大きな武功を挙げてたこともあり、最終的には豊臣秀吉との謁見を許されて小諸城および5万石もの領地を与えられることになった。ただ、秀吉の家臣として京都にいることが多く、小諸城にはあまりいなかったとも言われている。

徳川幕府下では小諸藩主として

慶長3年(1598年)、に秀吉が病没し、豊臣家中で対立が起こると、秀久は自身の復帰に協力してくれた家康方につくことになる。

慶長5年(1600年)に始まった関ヶ原合戦では、家康の息子・徳川秀忠に協力し、真田昌幸が籠城していた上田城の攻略に参加していた。このとき秀忠を一刻でも早く関が原に向かわせるため、自ら真田家の人質になるなどの進言をしている。その後、関ヶ原の決戦に間に合わなかった秀忠が家康から厳しい叱責を受けたが、このとき秀久は身を挺して秀忠を弁明している。

そうした秀久の様子に感銘を受けた秀忠は、自信が将軍になると、秀久が江戸に参府する時に妻子の同伴を認めたり、江戸にはいるときには幕府からの上使が必ず板橋宿まで迎えにくるなどの特別扱いをした。

小諸藩主になった秀久は、領地の開拓や整備に取り組んだ。具体的には八幡宮の勧進や街道での伝馬制度の設立、宿場街の整備などをおこない、特に笠取垰と小諸城および城下町までの街道を開拓、整備したのは彼の大きな功績と言えるだろう。また、小諸城の大改修にも着手し、当時の最新技術を用いて大手門や黒門、二の丸の増築をおこなっている。

慶長19年(1614年)、江戸から小諸城へ戻る途中、鴻巣あたりで病に倒れて、同年の5月6日に死去。享年64歳であった。遺骨は小諸にある西念寺で荼毘に付されて芳泉寺に葬られたが、なくなった場所である鴻巣・勝願寺にも分骨されたらしく、真田信之の正室である小松姫のお墓のそばに遺骨を収めたお墓が存在している。
なお、家督は三男である仙石忠政が継ぐことになった。





おすすめの記事

 PAGE TOP