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「小西行長」商人から武士へ転身。清正と犬猿の仲だったキリシタン。

小西行長の肖像画
小西行長はキリシタン大名として知られるが、武士の生まれではない。だが、そのもって生まれた才知によって大きく躍進。豊臣政権下での朝鮮出兵では石田三成とともに活躍するも、彼の最期は三成と同じ運命をたどることになる──。

商人から武士、そしてキリシタンへ

小西行長は永禄元年(1558年)に堺商人の小西隆佐の次男として生まれた。 父の小西隆佐は薬種商を営んでいて、1560年代に日本に宣教師として来日していたルイス・フロイスからキリスト教を伝えられてキリシタンになった。

元亀3年(1572年)、行長は岡山の商人である魚屋九郎衛門の養子になると、宇喜多直家の元を商売の関係上何度も訪問しているうちに才能を見出されて宇喜多家の家臣となったといわれている。当時、宇喜多直家は織田信長に従属していたため、嫡男の秀家が織田への人質として出されていたが、このときに付き添ったのが行長であった。

やがて織田重臣の羽柴秀吉が、付き添っている行長の才知を気に入り、天正8年(1580年)より父隆佐と共に羽柴家の家臣になる。信長死後、秀吉が天下統一事業を受け継ぐと、兵庫県の室津に所領を与えられ、瀬戸内海から大阪湾あたりで行き来する船舶の監督を任された。また、諸大名との連絡役としても用いられた。

天正12年(1584年)に洗礼を受けてキリシタンになる。これには諸説があって父親がキリシタンだったからもっと洗礼は受けていなくても以前からキリシタンだったのではないかという説もあれば、キリシタンだった高山右近の影響を受けてこのときに洗礼を受けてキリシタンになったという説がある。洗礼名はアウグスティヌス。

バテレン追放令の後、九州を本拠地として活動。キリスト教保護に注力

天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、小豆島1万石を与えられる。行長はこの小豆島にセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を熱心に行った。しかしながら、天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出して日本に来ている宣教師を国外追放の処分をしてしまう。この煽りを受け、行長はキリスト教からの改宗を迫られた高山右近やオルガンティーノ宣教師をこの小豆島に一時的に隠した。

また、同年の秀吉の九州征伐にも従軍。戦後には肥後国を拝領した佐々成政の失政によって肥後国人一揆が勃発するが、これを見事に討伐して肥後の南半分の所領を与えられている。ちなみに、北半分は同じく一揆の鎮圧で戦果を挙げた加藤清正に与えられた。

行長は新たな本拠地としてここに宇土城を築城し始める。しかしながら、行長の支配に反抗的だった天草五人衆が一揆を起こした。行長は穏便に対処しようとしたが、肥後の北半分を支配している加藤清正が強引に出兵して力技で鎮圧しようとしたことから、行長も立場上出兵せざるを得なくなった。ちなみに、清正は熱心な日蓮宗信者でキリシタンを嫌っていた。この鎮圧の成果によって行長は天草1万石を秀吉から与えられる。

この天草は後の島原・天草一揆でも有名な場所であることからもわかるように、住民のほとんどがキリシタンだった。そのため、イエズス会の宣教師がよく来ていたのだが、行長はそれを黙認してむしろ領地に宣教師をたくさん招いていた。 教会や聖像学校も設立するほど熱心にキリスト教を保護した。それからバテレン追放令で失脚した高山右近の家臣だった者を自身の家臣として取り立てることもしている。

朝鮮出兵で活躍するも、最期は関ヶ原で敗北

秀吉は朝鮮出兵を決意すると、行長は1番隊として6000人の兵を率いて朝鮮に渡航する。その後諸大名が続いていくことになる。これが文禄元年(1592年)から行なわれた文禄の役である。行長は現在のソウルにある漢城を陥落させるなどの活躍を見せるが、ここまでが山場で後は一進一退の攻防戦が繰り広げられるだけであった。そして行長と石田三成が中心になって朝鮮と和平交渉を進めたが、この行為に秀吉は大激怒して一時は死を命じられたほどだった。行長は2度目の朝鮮出兵となった慶長2年(1597年)からの慶長の役においても、先鋒隊で兵を率いることを命じられ、出兵している。このとき南原城を陥落させる活躍を見せるが、翌慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなったことを受けて帰国。

秀吉亡き後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成に協力して家康に反旗を翻している。理由は諸説あるが、朝鮮出兵のときに関係が深くなった三成が西軍にいたことや、同じく西軍に宇喜多家が付いていたことが挙げられる。しかし、決戦の地で三成ら西軍は、小早川秀秋の裏切りをきっかけにわずか1日で敗れ、行長も敗走することに。最期は盟友だった三成とともに捕縛されて、同年の10月1日に京都の六条河原で一緒に処刑となった。

処刑の際には同じくキリシタンだった黒田長政に告解の秘蹟を依頼するも、これを知った家康が反対して叶わずじまいに終わる。しかしながら、イエズス会側の資料では行長の遺体は教会に引き取られて、あらためて秘蹟を受けてカトリック式で埋葬されたという。当時の教皇クレメンス8世は日本という極東でキリシタンとして生きた行長の死をひどく悼んだと伝えられる。





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