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後北条家5代にわたる年表

初代・北条早雲

永享4年(1432年)
誕生。※1456年(康正2年)説もあり。
文明8年(1476年)
今川家の家督争いの調停を務める。甥の龍王丸(後の今川氏親)が成人した時、家督を継ぐ旨の和議を誓わせる。

幕府の申次衆・奉公衆に

文明15年(1483年)
9代将軍・足利義尚の申次衆に任命される。
長享元年(1487年)
  • 龍王丸の家督代行をしていた小鹿範満・小鹿孫五郎兄弟を殺害する。
  • このころ、幕府の奉公衆となり、幕府奉公衆・小笠原政清の娘(南陽院殿)を娶り、嫡男・氏綱が誕生する。

今川家臣として

延徳元年(1489年)
龍王丸が今川家の家督を継承して今川氏親と名乗り、早雲は氏親の家臣となる。
明応2年(1493年)
将軍の命を受けて堀越公方を滅ぼす(伊豆討入り)
明応3年(1494年)頃
氏親の家臣として遠江へ侵攻、中遠まで制圧する。
明応4年(1495年)
  • 扇谷上杉家家臣・大森藤頼から小田原城を奪取。
  • 同年、甲斐へ侵攻し、守護・武田信縄と戦う。
文亀年間(1501-04年)頃
三河国へ侵攻する。
永正元年(1504年)
氏親と共に武蔵へ出陣して山内上杉家の山内顕定に勝利(立河原の戦い)。
永正2年(1505年)
以後、山内家、扇谷家の両上杉家と敵対関係になる。

相模国の平定へ

永正3年(1506年)
小田原周辺で指出検地を実施。
永正4年(1507年)
長尾為景・景春と結んで山内顕定を牽制する。
永正6-7年(1509-10年)
武蔵、相模で扇谷上杉家・上杉朝良と交戦。このころには今川の武将としての活動はほぼなくなる。
永正9年(1512年)
相模をほぼ掌握し、鎌倉に玉縄城を築城。
永正13年(1516年)
三浦氏を滅ぼし、相模を平定。
永正15年(1518年)
家督を嫡男・氏綱に譲る。
永正16年(1519年)
死去。

2代・北条氏綱

長享元年(1487年)
北条早雲の子として誕生。
永正15年(1518年)
父・早雲の隠居により、北条家の家督を継ぐ。
永正16年(1519年)
父・早雲が死去。
大永年間(1521-27年)
寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿・相模六所宮・伊豆山権現の再建を行なう、この間に "相州太守" を名乗る。
大永3年(1523年)
名字を伊勢氏から北条氏へと改める。

氏綱包囲網が形勢され、窮地に。

大永4年(1524年)
武蔵へ侵攻して扇谷上杉勢を攻めるも、扇谷上杉は山内上杉・武田信虎・古河公方の足利高基らと手を結び、氏綱包囲網が形勢され、一旦和睦を余儀なくされる。
大永5-6年(1525-26年)
氏綱包囲網に上総国・真里谷武田氏、小弓公方、安房国・里見氏も加わる。
以後、氏綱は徐々に追い込まれていく。
天文2年(1533年)
  • 里見氏・小弓公方を擁立する真里谷武田氏で内紛が起き、氏綱包囲網が弱まる。
  • 同年、鎌倉鶴岡八幡宮の再興に向けて工事を開始。

勢力拡大と今川氏からの独立

天文4年(1535年)
今川氏輝の要請で甲斐へ出陣、武田信虎の弟を討ち取る(山中の戦い)。
天文5年(1536年)
今川の家督争いでは栴岳承芳(のちの今川義元)を支持(花倉の乱)。
天文6年(1537年)
  • 駿相同盟の破棄により駿河へ出兵し、独立を果たす(河東の乱)。
  • 同年、4代目古河公方・足利晴氏と同盟。
天文7年(1538年)
小弓公方を滅ぼす(第一次国府台合戦)。

晩年

天文8年(1539年)
娘の芳春院を足利晴氏に嫁がせ、足利氏の「御一家」の身分を与えられる。
天文10年(1541年)
病死。享年55。

3代・北条氏康

永正12年(1515年)
北条氏綱の嫡男として誕生。幼名は伊豆千代丸。
享禄2年(1529年)
この頃に元服する。
享禄3年(1530年)
上杉朝興との戦いで初陣を飾り、大勝する(小沢原の戦い)。
天文4年(1535年)
甲斐・山中合戦に出陣。
天文6年(1537年)
河越城攻略に出陣、同年、父・氏綱と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進する。
天文7年(1538年)
第一次国府台の戦いに従軍し、小弓公方を滅ぼす。
天文8年(1539年)
将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られる。
天文10年(1541年)
父・氏綱が死去、家督を継いで北条家第3代当主となる。
天文14年(1545年)
第2次河東一乱で今川・山内上杉・扇谷上杉を相手に窮地に陥る。
天文15年(1546年)
劣勢の中で夜襲をかけ、扇谷上杉氏を滅ぼす河越夜戦
天文18年(1549年)
関東で大地震が発生し、北条領全域で農民の逃亡が大規模に起きる。
天文19年(1550年)
公事赦免令を発令。同年、上杉憲政の居城・平井城を攻める。
天文20年(1551年)
平井城を陥落、上杉憲政を追い詰め、越後・長尾景虎(のちの上杉謙信)の元へ追いやる。
天文21年(1552年)
上野・武蔵・常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などの関東諸侯との敵対状況が続く。
天文22年(1553年)
里見氏を攻め始める。
天文23年(1554年)
娘・早川殿を今川氏真に嫁がせ、信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで同盟(甲相駿三国同盟)
弘治3年(1557年)
宇都宮家臣・芳賀高定の宇都宮城奪還のため、古河公方・佐竹氏・那須氏らに宇都宮氏への援軍要請を出す。
永禄2年(1559年)
次男・氏政に家督を譲って隠居、ただし、実権は保持。
永禄3年(1560年)
上杉謙信の関東遠征に上野国の諸城を次々攻略され、氏康は小田原城に籠城。
永禄4年(1561年)
上杉軍に居城・小田原城を包囲されるも守り抜く小田原城の戦い
永禄7年(1564年)
第2次国府台合戦で勝利し、上総に勢力を拡大。同年、岩槻城主・太田氏資を調略し、武蔵国の大半の支配権を確立。
永禄9年(1566年)
由良成繁・佐野昌綱・北条高広らを帰順させ、上野国に勢力を拡大。
永禄10年(1567年)
里見軍に大敗し、娘婿の太田氏資が戦死、上総の支配権を失う(三船山合戦)。
永禄11年(1568年)
武田信玄駿河侵攻の開始により、甲相同盟が破綻。氏康は今川氏を支援。
永禄12年(1569年)
  • 上杉氏と越相同盟を締結。
  • 同年、三増峠の戦いで武田軍に敗北。
元亀元年(1570年)
病にかかり、鎌倉仏日庵で氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われる。
元亀2年(1571年)
小田原城で死去。享年57。

4代・北条氏政

天文7年(1538年)
北条氏康の次男として誕生。
天文23年(1554年)
甲相駿三国同盟が成立し、信玄の娘・黄梅院を正室に迎える。
永禄2年(1559年)
父・氏康の隠居により、家督相続して北条家4代目当主となる。
永禄4年(1561年)
小田原城の戦いで父とともに上杉軍を撤退させる。
永禄7年(1564年)
  • 第2次国府台合戦で勝利し、上総に勢力を拡大する。
  • 同年、岩槻城主・太田氏資を調略し、武蔵国の大半の支配権を確立。
永禄9年(1566年)
由良成繁・佐野昌綱・北条高広らを帰順させ、上野国に勢力を拡大。
永禄10年(1567年)
三船山の戦いで里見氏に敗退し、上総の支配権を失う。
永禄11-12年(1568-69年)
武田信玄による駿河侵攻が開始されると、駿相同盟を優先して今川氏真を支援。信玄とは手切れとなる。
永禄12年(1569年)
  • 弟の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子(=人質)として差し出し、越相同盟で武田氏に対抗する。
  • 同年、信玄による小田原城攻撃を防いだ後の武田軍追撃に遅延し、弟の氏照・氏邦隊は敗退(三増峠の戦い)。
元亀2年(1571年)
父・氏康が病没し、遺言に従って甲相同盟を復活させ、越相同盟を破棄する。
元亀3年(1572年)
信玄の西上作戦に援軍を送る。
天正2年(1574年)
  • 謙信の上野進出に対して利根川で対陣する。
  • 同年、簗田晴助の下総・関宿城を攻略。
天正3年(1575年)
小山秀綱の下野・祇園城を攻略。
天正5年(1577年)
上総に侵攻し、里見義弘と和睦(房相一和)
天正6年(1578年)
上杉家の後継者争い・御館の乱では弟の景虎を援助。
天正7年(1579年)
弟の景虎が家督争いで敗戦して自害。これをきっかけに甲相同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結ぶ。
天正8年(1580年)
  • 武田勝頼との戦いで上野国で劣勢に陥り、天下統一に近付く織田信長に臣従を申し出る。
  • 同年、子の氏直に家督を譲って隠居。
天正10年(1582年)
  • 甲州征伐では信長に呼応して駿河への侵攻を行なう。
  • 同年、本能寺之変で信長が横死すると、氏直軍を上野に侵攻させ、滝川一益を敗走させる(神流川の戦い)。
  • その後、徳川・上杉・真田らと武田旧領争奪戦を繰り広げ、最終的に氏直と家康の娘を結婚させることで和睦(天正壬午の乱)。
天正11年(1583年)
  • 古河公方・足利義氏が死去すると、官途補任により権力を掌握。
  • 武蔵の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保する。
天正13年(1585年)
下野の南半分、さらに、常陸南部にも勢力を及ぼし、北条氏の最大版図を築く。
天正15年(1587年)
台頭した秀吉が関東・奥羽の惣無事令を発令。氏政はこれに従わずに戦いを続ける。
天正16年(1588年)
秀吉から聚楽第行幸への列席を求められるも、これを拒否。しかし、8月には北条氏規が上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権への従属する。
天正17年(1589年)
名胡桃城奪取事件で秀吉から上洛要請を受けるも、自らは上洛せず、家臣の板部岡江雪斎を出頭させる。
天正18年(1590年)
秀吉による小田原征伐によって降伏し、戦後に切腹を命じられて死去。享年53。

5代目・北条氏直

  • 1562年(永禄5年)、北条氏政の次男として誕生。
  • 1577年(天正5年)、元服して古河公方・足利義氏にはじめて書状を送る。同年、上総国に初陣。
  • 1580年(天正8年)、父・氏政隠居により家督を継いで北条家5代目当主となる。
  • 1581年(天正9年)、叔父・武田勝頼と三島で戦うも決着つかず。
  • 1582年(天正10年)、神流川の戦いで滝川一益を敗走させる。その後、上野・信濃・甲斐と続けて侵攻し、最終的に徳川と和睦(天正壬午の乱)。
  • 1583年(天正11年)、家康の娘・督姫を娶って同盟締結。
  • 1587年(天正15年)、秀吉による関東・奥羽の惣無事令が発令され、以後、秀吉との戦いを想定して軍備増強に務める。
  • 1589年(天正17年)、名胡桃城奪取事件が起き、秀吉への弁明に奔走。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐で降伏。家康の婿であることからか秀吉から助命される。高野山での生活を余儀なくされ、以後「見性斎」と称す。
  • 1591年(天正19年)、秀吉から赦免されて河内・関東において1万石を与えられるも大坂で病死。享年30。





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