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「河越夜戦」三代目氏康の伝説の合戦!
──天文15年(1546年)

戦国史において劇的な勝敗となった日本三大奇襲(日本三大夜戦)と呼ばれる3つの合戦をご存じだろうか。 一つは織田信長の「桶狭間の戦い」、もう一つは毛利元就の「厳島の戦い」。そして最後の一つが北条氏康が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の三者連合と武蔵国・河越城付近で激闘を繰り広げた「河越夜戦」(かわごえよいくさ)なのだ。

合戦の背景

関東地方では室町後期より古河公方と関東管領の上杉氏が対立したり、さらに上杉氏の内部でも山内上杉家と扇谷上杉家が対立するなど、いち早く戦国の動乱が訪れていた。こうした中、のちの後北条氏の初代となった伊勢宗瑞(=北条早雲)が台頭して伊豆・相模の戦国大名として名乗りをあげた。

永正16年(1519年)には2代目北条氏綱が家督を継ぐが、その後は扇谷上杉家の支配する武蔵国にも進出。扇谷上杉家はたまらず、敵対する山内上杉家や甲斐の武田信虎らと同盟を締結するが、北条氏の勢いは止まらず、天文6年(1537年)には扇谷上杉の本拠・河越城をも陥落させ、扇谷上杉家を滅亡寸前にまで追い詰めていたのだ。

しかし、同年は北条氏にとって悪いことに、姻戚関係にあったお隣の今川氏が武田信玄と同盟を結んだために敵対化。駿河今川領への侵略を開始し、長期にわたる合戦を余儀なくされることに。天文10年(1541年)に氏綱が病に倒れると、その後を継いだ3代目氏康はやがて絶対絶命の危機に立たされることとなる。

天文14年(1545年)の7月下旬、今川義元が北条に奪われた河東エリアを奪還すべく、関東管領の上杉憲政と内通して挟み撃ちの作戦に出てきた。氏康は駿河でこれに応戦するものの、武田軍の介入、さらには山内・扇谷の両上杉軍が河越城を包囲したとの報を受けて、10月下旬には武田信玄の斡旋によって和睦を余儀なくされた。
だが、約10年近くにわたった河東一乱の終結により、氏康は関東へ転戦できる状況を得られたのである。

合戦の経過

両上杉軍と古河公方の連合軍に包囲された川越城でいよいよ開戦となる。

同年の9月26日、両上杉や古河公方の連合軍が包囲。一説によると、このとき関東のほぼ全ての大名家が包囲軍に参加したといい、包囲軍の総兵力は8万超えといわれる。

上杉憲政が城南、上杉朝定が城北など、三方を包囲された。北条方の河越城は北条綱成が約3千の兵で守備していたが、圧倒的な兵力差もあって落城は時間の問題であったようだ。今川氏と和睦した氏康は約8千の兵で救援に向かい、途中で太田資顕を調略して河越城までのルートを確保したという。
だが、意外なことに川越城はこの危機的状況の中で半年間も耐え抜いて、戦況は膠着状態に。この長丁場で連合軍の士気は低下し、包囲網は弛緩しきっていたという。

こうした中、氏康は奇襲を計画。綱成の弟・福島勝広は自ら使者役を志願し、敵の大軍が包囲する中を単騎で抜けて河越城へと入り、綱成にその奇襲作戦計画を伝えた。その間、氏康は連合軍に対して降伏を願い出る偽りの詫び状を送り続けていたようだ。もちろん奇襲を成功させるための方便である。
当初、連合軍側はこれを受け入れずに、北条軍に対して攻撃を仕掛けていったが、これに氏康はあえて取り合わず、府中まで陣を引いて油断を誘った。この動きに気を良くした連合軍側では楽勝ムードが漂いはじまる。

そして翌天文15年(1546年)の4月20日の晩、ついに氏康は敵陣に奇襲を仕掛けた。

氏康は8千の軍勢を4隊に分け、1隊は多目元忠に預けて合戦が終了するまで動かないように命じた。 そして自らは3隊を率いて兵士らに甲冑を脱がせるなどして身軽にしてから、連合軍に突撃を敢行し、敵を大混乱に陥れることに成功。 このとき、扇谷上杉の当主・上杉朝定ほか、扇谷重臣の難波田憲重が討死。上杉憲政は難を逃れて敗走するも、重臣が退却時に討死するという損害を被っている。氏康はさらに追撃して敵陣深くへと切り込もうとしたが、後方に残っていた多目元忠が法螺貝を吹かせて撤退させた。

河越城に籠城していた綱成も、この奇襲に呼応して「勝った、勝った」と叫びながら出撃し、浮き足立っていた足利晴氏の軍を敗走させたという。なお、この河越夜戦での連合軍の死者は1万をゆうに超えていたという。

戦後

戦後、当主を失った扇谷上杉家は滅亡、関東管領の山内上杉家は急速にその勢力を失っていった。 同様に敗走した古河公方・足利晴氏は、直後に御所を包囲されて降伏。家督を北条家と繋がりのある次男義氏に譲らざるをえない状況になり、隠居・幽閉されることとなる。

一方でこの戦いで古河公方、及び関東管領を退けた後北条氏は、関東南西部においてその勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を確固たるものとしていった。なお、この戦いについての詳細な記録は残っておらず、現存している史料の多くが後世に記された軍伝や軍記であり、それをもとに伝えられている。それゆえ、実情はこうした伝聞とは違い、連合軍の包囲網は上杉朝定の急死による動揺で崩壊、その隙を突いた北条方が連合軍を突破したとの推測もある。





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