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「第二次国府台合戦」北条氏、上総進出の足掛かりとなった合戦
──永禄7年(1564年)

国府台合戦は下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)付近を舞台として行なわれた合戦であり、かつて北条氏綱の代にも同地で合戦が行なわれていることから、同合戦は「第一次」と「第二次」の2つに分けられている。

合戦の背景

国府台城は元々、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌がこの地に仮陣を築いたことに始まる。下総国の玄関口という要所であったことから、後北条氏・千葉氏・古河公方・小弓公方、さらに里見氏や扇谷上杉氏といった勢力の戦場と化していた。実際、天文7年(1538年)には北条軍が小弓公方・里見連合軍と激突し、小弓公方の足利義明を討ち取っている。(第一次国府台合戦)

以後、国府台城は千葉氏の重臣・高城胤吉が城主となったが、その後、千葉氏が北条氏の傘下に入ったため、国府台は事実上北条氏の所領となったようだ。

一方、北条氏は破竹の勢いで勢力を伸ばしていった。

天文15年(1546年)河越夜戦では扇谷上杉氏を滅ぼし、天文21年(1552年)には関東管領である山内上杉氏の上杉憲政を越後へ追いやっている。また、天文23年(1554年)には今川・武田と甲相駿三国同盟を締結し、関東制圧にむけて盤石の体制を整えたものの、これを良しとしない越後の上杉謙信が北条討伐を掲げて関東出兵を開始。両陣営は関東諸将を巻き込んで関東の地で激しく衝突を繰り返すことになるのであった。

こうした中、永禄6年(1563年)に氏康は武蔵松山城に攻撃を開始した。このとき謙信は彼らを救出すべく、里見義堯に援軍を要請しており、国府台付近で北条と里見両軍が衝突したとされている。最終的に松山城が陥落したため、里見軍は撤退を余儀なくされた。

その後、北条家臣で氏康の甥にあたる太田康資が、同族の岩付城主・太田資正を通じて謙信へ寝返りを試みる。これは失敗に終わるが、彼は太田資正の元に逃亡することになった。彼が謀反を起こしたのは、恩賞が少ないことへの不満だった、曽祖父・大田道灌が築城した江戸城の城主になれなかったことが不満だった、などの説がある。

合戦の経過

第二次国府台合戦マップ


永禄7年(1564年)正月、謙信から太田資正・康資の救出を依頼された里見義弘は、1万2千の軍勢を率いてまもなく出陣し、国府台城へ迫る。これを知った千葉氏はあわてて氏康に援軍を求め、北条方も2万の援軍を国府台に派遣したという。

こうして1月7日、北条軍と里見軍が国府台で衝突。(第二次国府台合戦)
このとき、太田康資の謀反に気づかなかったことに責任を感じていた北条方の遠山綱景は、本隊から先行して里見軍に攻撃をしかけるも、反撃にあってあえなく討死したという。この敗戦により、北条軍は千葉氏とともに敵を挟撃する作戦に狂いが生じてしまったらしい。しかし、主力の多くが残っている北条軍はここで一計を案じた。

北条方は敗れたとみせかけて一旦撤退するが、翌8日に反転して夜襲を仕掛けたのである。これに対し、戦勝気分に酔いしれていた里見軍は大混乱。里見軍の主力である土岐為頼は裏切って逃亡、さらに里見の筆頭家老の正木信茂も討死。家臣の裏切りにもあった里見義弘は命からがら逃れたという。

戦後

北条はこの戦いの勝利により、下総国をほぼ掌握。この後、一気に上総国へも進出して、土岐為頼と正木時忠を服属させることに成功するのである。なお、太田康資はそのまま里見氏の庇護下に置かれて安房国へ。資正は下野国宇都宮氏を頼り、その後まもなく常陸国の佐竹義重の配下となっている。


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