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「遠山綱景」"江戸衆"の筆頭に位置した北条家重臣

関東の雄・北条氏の重臣として江戸城代を務めた遠山綱景。江戸衆筆頭に列せられ、相模国に多くの知行を与えられていたとも伝わる彼の生涯とは?

北条重臣の一族

綱景は永正10年(1513年)頃、の北条氏の重臣・遠山直景の嫡男として生を受けた。

武蔵遠山氏は、父直景が幕府奉公衆であった北条早雲の知恵を得て、武蔵国へ移ったのにはじまる。 綱景の誕生当時は、早雲はすでに「伊豆討ち入り」を果たしており、相模平定に向けて扇谷上杉家傘下の三浦氏と激闘を繰り広げていたころである。

やがて早雲の後継者として北条氏綱が2代目当主になると、氏綱から「綱」 の一字を貰い受けて「綱景」を名乗ったとされている。氏綱が大永4年(1524年)に扇谷上杉家の拠点であった武蔵江戸城を攻略すると、その後に父直景が城代を務めるようになったという。なお、江戸城代は3人いて、本丸に富永氏、二の丸に遠山氏、三の丸に太田氏だったらしい。 そして、天文2年(1533年)に父が死去すると、綱景は20歳の若さで家督と江戸城代としての地位を継承することになる。

一方で、綱景は「連歌」にも関心があったようだ。文化の中心である京から遠く隔てた江戸の地で「連歌」を嗜み、連歌師・宗牧を招いて会を催したこともあることから、それだけ家中で地位も高かったものと考えられている。

綱景の最期

永禄元年(1558年)、古河公方・足利義氏が小田原城を訪問した際には、北条氏の五宿老の一人として綱景が拝礼を行っている。このころ同時に葛西城を与えられていることから、三代目北条氏康の代になっても引き続き、北条家中で厚い信頼を受けていたことが伺える。

綱景の最期の舞台となったのが、江戸城からさほど離れていない東に位置する国府台城である。

この地は下総国の玄関口という要所であったことから、以前から争奪戦の場となっていたが、この頃は北条に従属する千葉氏が領有していた。そして永禄7年(1564年)、綱景と同じ江戸城代で娘婿でもあった太田康資が恩賞が少ないことへの不満から、同族の岩付城主・太田資正を通じて上杉謙信に寝返りを図るも失敗し、大田資正の元へ落ち延びた。謙信は太田康資・資正の救援のために里見氏に援軍要請し、1万2千の里見軍が国府台へと入った。ここに第二次国府台合戦が勃発するのである。

国府台城を守備する千葉氏から援軍を受けた氏康は、綱景や北条綱成ら2万もの軍勢を派遣した。このとき、綱景は太田康資の離反を察知できなかったことに責任を感じていたという。北条綱成の本隊よりも先行して攻撃をしかけるも、逆に里見軍の反撃にあってあえなく討ち死となった。

一族のその後は?

『新編武蔵風土記稿』によると、綱景死後の江戸城代は、綱景の弟の遠山直親だという。

なお、この戦いで娘婿の舎人城主・舎人恒忠や嫡男の遠山隼人佐も戦死しており、遠山家の家督は綱景三男の遠山政景が還俗して継いだ。政景の後はその子・直景が継いで、後北条氏の房総方面を管轄。しかし、 直景は天正15年(1587年)に死去し、嫡子の犬千代が家督を継ぐも、北条滅亡とともに没落した。

一方、舎人恒忠に嫁いでいた綱景の娘は、嫡男の勇丸を連れて大道寺政繁と再婚し、4人の男子を生んだという。





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