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「北条氏照」軍事・外交で活躍した氏康三男。秀吉に降伏後は主戦派として処刑される。

小田原城を本拠地とした北条氏は、一族の結束が固いことで知られる。特に三代目当主・氏康の子供たちは、兄弟みな力を合わせて難敵と対した。氏康三男の北条氏照は、兄弟の中でも戦いに秀でており、最期まで一族のために命を捧げている。そんな氏照の生涯とは?

北条兄弟の三男

氏照は天文9年(1540年)、北条3代目当主・北条氏康の三男として生まれた。 兄の北条氏政は4代目当主で、弟には北条氏邦・氏規・氏忠・氏光・三郎(のちの上杉景虎)らがおり、いずれも北条家のために戦った人生を送っている。長男の新九郎は夭折したので、氏照は実質次男だった。

永禄2年(1559年)、信濃木曾氏一門で武蔵国の滝山城主・大石定久の娘と結婚し、大石家に婿として入った。戦国時代によく見られた結婚で、婿入りとは言いつつ実際は乗っ取りに近い。元は敵だった家に一族のものを送り込んで、内側からその家を奪っていくのである。現に氏照は大石家に入って家督を継承して大石源三氏照を名乗るも、これを掌握したのちに北条姓に服している。ただ、大石家の一族を取り立てており、婚家との関係は良かったようである。結婚前後から父氏康に従って各地を転戦する様子が記録に表われ始め、戦国武将としての人生が始まっていく。

里見氏・武田氏との戦い

氏照は軍事面で主に東方を担当し、北関東への後北条氏の勢力拡大の先頭に立った。永禄4年(1561年)には武蔵の勝沼城主・三田綱秀と戦い、安房国の里見氏とは永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦永禄10年(1567年)三船山合戦で戦っている。

永禄10年(1568年)には、甲斐の武田信玄が三国同盟を破って駿河侵攻を開始し、北条と武田の同盟関係が破綻となる。これにより、武田家臣の小山田信茂が氏照の居城・滝山城に攻め寄せてきたが、氏照は三の丸まで城を落とされながらも奮戦し、武田勢を撃退している。また、このときの戦いで武田勝頼と直接槍を合わせたという逸話も残っており、勇猛果敢だった若き日の氏照の姿が垣間見える。

永禄11年(1569年)には、武田信玄が大軍を率いて相模国の奥深くまで攻め入り、北条氏の本拠・小田原城を包囲するが、このときも氏照は他の兄弟たちと一緒に小田原城に籠城し、粘り強く戦って武田軍を撤退に追い込んでいる。しかし、敗走する武田軍を深追いして敗れた三増峠の戦いは、氏照にとって苦い教訓となったであろう。

取次としても活躍と越後出兵

戦国時代に他国との交渉を任された人物を "取次" と呼ぶが、氏照は取次としての活躍も顕著である。北条兄弟は取次の仕事をそれぞれ分担していたが、氏照は主に下野国の国人・古河公方の勢力圏・奥州の大名らだったという。具体的には下野の佐野氏や越後の上杉氏、奥州の伊達氏や蘆名氏など、大国との交渉を担ったようである。

その関係から、天正6年(1578年)に越後で上杉謙信の後継者を争った御館の乱が勃発すると、氏照は実弟の景虎を支援するため、北条家の代表者として自ら兵を率いて越後に入っている。なお、この家督争いでは景虎と上杉景勝とが戦ったが、途中で景虎を支援していた武田勝頼が景勝と和睦して撤退、さらに氏照らも越後の深い雪に滞陣を阻まれて撤退を余儀なくされるなどして、結果的に景虎は敗死している。

秀吉の小田原攻めと切腹

その後、天正10年(1582年)には、織田信長が武田家を滅ぼし、北条も信長に従属の意志表示をしていたが、その直後に本能寺の変が勃発して信長がまさかの死を遂げた。武田滅亡後まもない出来事だったため、織田領となっていた旧武田領の甲斐・信濃・上野の3国は情勢不安となって一気に争奪戦が繰り広げられることになる。

北条家はさっそく上野への侵攻を開始し、6月16日から19日まで上野で行なわれた神流川の戦いでは、5代目当主の北条氏直とともに氏照も出陣し、織田家家臣の滝川一益を撃ち破った。その後は甲斐や信濃へも侵攻して徳川家康真田昌幸と争い、最終的に和睦して一応の領域が定まると、今度は逆に家康と同盟関係を締結し、織田政権を引き継いだ豊臣秀吉と対峙している。

豊臣政権との取次は弟の氏規だったものの、北条家の外交方針には常に氏照が参画しており、天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に際しては抗戦派の急先鋒となった。
氏照らの意見が通り、北条家は籠城して戦う道を選び、氏照自らも小田原城に赴いて籠城することに。しかし氏照らの予想に反して、秀吉の小田原攻めは物量で圧倒的に北条勢を上回っていた。上方勢のあまりの勢威の前に、北条方は次々と支城を陥落させられ、大規模な衝突もないまま、最終的に小田原城も降伏・開城となる。

最初、当主氏直の切腹で赦免されるよう交渉が始まるも、秀吉は氏照ら抗戦派に罪があると断じ、前当主の氏政と氏照に切腹が命じられた。兄弟は従容と秀吉の命を受入れ、7月11日、城下の家臣の邸宅にて切腹。氏照は享年51だった。

戦後、北条領は家康に与えられ、戦国大名としての北条氏は滅亡となった。氏直も翌年に若くして病死してしまうが、弟の氏規の家系が存続して近世大名として明治まで続いた。氏照の切腹は、ある意味で北条家を守ったと言えるのかも知れない。

なお、居城の滝山城を武田軍に攻められて苦戦した経験から、氏照は秀吉の侵略に備えて本格的な山城を築城し、本拠地のひとつとしている。この山の山頂に八王子社が祀られていたのにちなんで "八王子城" と名付けられ、この城の名が現在の東京都八王子市の由来となった。





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