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「北条氏邦」上野国方面の軍事を任された氏康四男

北条氏康の四男であり、兄の氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線である上野方面の軍事を任された北条氏邦。 文献では北条ではなく藤田とされている。越後上杉氏の家督争いにも深く関わり、信玄や謙信、秀吉などにも臆することなく戦った将はどんな生涯を送ったのか?

氏邦の生い立ち

北条氏邦は、氏康の四男として天文10年(1541年)に誕生したとされる。天文15年(1546年)河越夜戦で降伏した藤田康邦のもとに、少なくとも6歳の時には養子かそれに準ずる形で送り込まれたと考えられ、北条氏邦の名での文献の登場は見つかっておらず、藤田氏邦と記されている。

永禄3年(1560年)には、越後の上杉謙信による天神山城の攻撃により、一時拠点としていた城を奪われたものの、その後に取り返したといい、永禄7年(1564年)頃には、藤田康邦の娘である大福御前と結婚したとされている。

永禄11年(1568年)頃に埼玉県にある鉢形城に本拠地を移すと、以後は北条氏の北関東支配の礎となった。この鉢形城は堅城なことでも知られている。永禄12年(1569年)、小田原攻めに赴く途中の武田信玄が攻撃を試みるも、鉢形城の守備が堅いと見るやいなや攻撃を止め、滝山城へと目標を切り替えている。その後、氏邦は信玄を追撃して滝山城主である兄・北条氏照と合流し、三増峠の戦いで一戦を交えた。

越後上杉氏の家督争いに介入

天正6年(1578年)5月に上杉謙信が亡くなると、遺言によって一旦は上杉景勝が跡目とされたが、失策などによって人心が離れると、もう一人の後継者候補に上杉景虎の名が急浮上し、上杉家の家督争いとして知られる御館の乱が勃発。

上杉景虎は氏康の七男であったことから、北条はこの乱に介入。氏邦は兄の氏照と一緒に景虎支援のために越後へと出兵した。三国峠を越えて樺沢城を占拠し、坂戸城を攻撃したものの、景勝や直江兼続らの抗戦にあって長期戦の様相を呈した。この戦況の中で北条と同盟国の武田勝頼の軍勢が越後に迫ってきたが、景勝は武田と和睦して形勢が逆転することに…。

やがて雪に阻まれ、北条軍は越後からの撤退を余儀なくされ、氏邦は樺沢城に駐屯させられることとなる。翌天正7年(1579年)には樺沢城を奪われ、景虎も鮫ヶ尾城まで逃れたものの、包囲されて自害して果て、景勝が上杉の家督を後継者となった。この乱のとき、氏邦はのちに真田家と争いのもとになる沼田城を北条領にしている。

北条滅亡のきっかけを作る?

本能寺の変の直後の神流川の戦いでは、氏邦はまだ若かった5代目当主・北条氏直に従軍してよく補佐し、ともに滝川一益を敗走させる功をあげた。この直後には武田旧領の争奪戦となった天正壬午の乱にも参戦している。

天正17年(1589年)豊臣秀吉による沼田領裁定に納得できない氏邦は、家臣の沼田城代・猪俣邦憲が引き起こした名胡桃城奪取事件の黒幕との説もある。この事件がきっかけで翌天正18年(1590年)に秀吉が小田原征伐を開始すると、氏邦は大規模な野戦を主張したという。結局これは受け入れられずに却下され、自身の居城である鉢形城に籠って応戦することになった。

前田利家らの北国軍3万5千に対して3千の軍勢で戦ったものの、本多忠勝の大砲による攻撃の前に助命を乞い、開城した。戦後は前田利家の嘆願によって剃髪して助命となり、能登津向に知行1千石を与えられた。慶長2年(1597年)に加賀国の金沢で病没。享年57。菩提寺である正龍寺に夫婦の墓が建立され、眠っている。





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