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「北条氏綱」氏康の父で、着実に勢力拡大した後北条二代目

北条氏綱の肖像画

【目次】

北条氏綱(ほうじょううじつな、1487-1541年)は相模国の戦国大名で後北条氏の第2代当主。北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大した。

経歴

父・早雲の相模国・岡崎城攻略(1512年)時における早雲との連署状が初見で、後継者として相模国・小田原城に在番していたと推測されている。

北条家当主に

早雲の隠居後は家督を継いで北条氏当主となると、虎の印判状の使用を始めるようになった。

早雲死後は政策を継承して房総半島に出兵して小弓公方・足利義明と真里谷武田氏を支援し、居城を小田原城とした。また、印判状のない徴収命令は無効とし、村落・百姓らへの直接支配体制を進めていき、友好関係を築いていった。

窮地に陥る氏綱

大永年間(1521-27年)には早雲寺の創建・寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿・相模六所宮・伊豆山権現の再建を行ない、この間に「相州太守」を名乗っている。

この間に伊勢氏から北条氏(後北条氏)へ改姓し、控えていた軍事行動を再開させたが、扇谷上杉氏・山内上杉氏・武田信虎・古河公方の足利高基らが手を結び、さらに、上総国の真里谷武田氏・小弓公方・安房国の里見氏が加わって包囲網が形勢され、氏綱は四面楚歌に陥った。

苦境続きであったが1533年(天文2年)に里見氏・真里谷武田氏で内紛が起きて窮地を脱した。

氏綱は関東への勢力拡大の一方で、駿河・今川氏との駿相同盟に基づき、甲斐の武田信虎とたびたび交戦していたが、花倉の乱(1536年)では今川義元を支持するも、義元が当主になった後に今川と武田の間で甲駿同盟(1537年)が締結された。

これにより駿相同盟は破綻となり、河東の乱で駿河へ出兵して勝利。早雲の代にあった今川氏との主従関係が解消され、北条氏は独立を果たす。同年、4代目古河公方・足利晴氏と同盟を締結。

晩年

第一次国府台合戦(1538年)に小弓公方の足利義明と里見氏と戦い、小弓公方を滅ぼすと、娘(芳春院)を足利晴氏に嫁がせ、古河公方足利氏「御一家」の身分を与えられた。晩年は嫡男・氏康の器量を心配し、氏康に対して5か条の訓戒状を伝えたのち、まもなく病死した。

名言

華麗を好み、何とぞ大身のまねをせんとする故、借銀かさまり、内証次第に詰まり、町人百姓を倒し、あとは博奕に心を寄せ候。

「侍はそれぞれその身の分限を守るのがよい。身分の高い者のマネをしようとすれば、借金が重なって手元が次第に詰まり、町人や百姓を踏み倒し、その果てには博打までするようになる。」という意味。
これは氏綱の遺訓の一条で、見栄や贅沢が身を滅ぼすと警告しているもの。


たとひ、片輪なる者たりとも、用ひ様にて重宝になる事多ければ、其の外は、すたりたる者は、一人もあるまじきなり。

「侍から地下人や百姓にいたるまで、みなを大切にすること。たとえ身体の不自由な者でも使い方によって重宝になることも多いから、その他の五体満足の者にすたり者は一人もいるわけがないのだ。」といった意味。
これも氏綱の遺訓の一節で、人づかいの方法の教えを説いているもの。


人の命はわづかの間なれば、むさき心底、ゆめゆめ、あるべからず。

「人の生命はわずかな期間であるから、決して汚い心がけでいてはならない。」といった意味。
これも氏綱の遺訓で、利ではなく、名を重んじる心がけを説いたもの。





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