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「田辺城の戦い」丹後の関ヶ原。幽斎の意外すぎる活躍とは?
──慶長5年7月19日~(1600年)

全国の諸大名が、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍に分かれて雌雄を決した関ヶ原の戦いには、開戦に至るまでにいくつかの前哨戦が行われている。田辺城の戦いと呼ばれる丹後田辺城(京都府舞鶴市)の攻防戦もその前哨戦の一つである。

合戦の経緯

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が病没すると、五大老の一人であった徳川家康は、政権の座を得ようと各大名と婚姻などの政策によって味方を増やしていった。そして、同じ五大老の上杉景勝が家康からの上洛の命令に従わないことを利用し、慶長5年(1600年)には、謀反を企てているとして上杉征伐(会津征伐)に乗り出すことになる。

家康が畿内から出陣して会津へ向かうと、佐和山に蟄居していた石田三成はこれを好機とみて大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げる。三成は家康との戦いを前にして畿内周辺の地盤を固めようと、東軍に加担する周辺の城を攻め始め、その攻撃対象には細川忠興が治める田辺城も含まれていたのである。

なお、三成の挙兵時、大坂城周辺にいる大名の妻子を人質にとり、西軍に取り入れようとしたが、このとき忠興の正室で明智光秀の娘として知られる細川ガラシャ(玉)は、大坂の細川屋敷で人質になることを拒み、最期には自ら命を絶ってしまっている。

合戦の経過

7月19日、小野木重次(福知山城主)や前田茂勝(亀岡城主)を主力とした西軍が田辺城を包囲。細川忠興は家康の上杉征伐に従軍していたため、この時に城を守っていたのは隠居していた忠興の父・細川幽斎である。

幽斎は雅号で本名は藤孝といい、室町幕府13代将軍の足利義輝や15代義昭に仕えたのち、織田信長に従って丹後宮津11万石を与えられた人物である。なお、田辺城を包囲していた西軍の中には、信長の弟である織田信包も含まれていた。田辺城を包囲した西軍1万5千の大軍に対し、田辺城に籠る細川軍は500にも満たないほどであった。

しかし、こうした圧倒的な兵力差があるにも関わらず、合戦は1ヶ月以上もかかり、田辺城は持ちこたえることに…。というのも、攻め手である西軍の中には、文化人でもある幽斎に対して歌道の師と仰ぎ、戦意を欠いている武将が少なくなかった。そして、幽斎が三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されていたことも影響していたのである。

結局、幽斎の討死と古今伝授の断絶を危惧した弟子たちにより、東軍と西軍共に勅使が派遣されて講和することになる。7月19日から続いた田辺城の戦いは、開城によって9月18日にようやく終結するのであった。

戦後

こうして戦いは西軍の勝利に終わり、城は西軍に明け渡され、細川幽斎や息子の幸隆は前田茂勝の居城・亀山城へと移されることになった。ただ、この戦いが終わった時すでに関ヶ原の決戦は終わっており、西軍の小野木重次や前田茂勝ら1万5千の軍勢は決戦に参加できなかったため、幽斎は東軍の勝利に貢献したといえる。





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