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「大津城の戦い」関ヶ原前哨戦!
──慶長5年9月7日~(1600年)

合戦の背景

天下分け目の戦いといわれた関ケ原の合戦があったのが慶長5年9月15日(新暦:1600年10月21日)であるが、この前哨戦といえる戦いが現在の滋賀県で行われていた。それが大津城の戦いであり、慶長5年9月7日から9月15日まで繰り広げられた。

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、徳川家康石田三成が対立するようになった。それが表面化したのが慶長5年6月から7月に行われた徳川家康による会津征伐であった。 家康が会津を攻めることを好機と捉えた石田三成は、大谷吉継毛利輝元らの諸大名をまとめて挙兵した。その中には大津城城主の京極高次も含まれており、北陸方面の平定に乗り出していた。 ところが京極高次は徳川家康から、会津征伐に向かっている間のことを頼まれていたのであった。大津城の守りが弱いと考えた京極高次は、一度は西軍に属することを決め、人質として子どもである京極忠高を大坂へ送った。その一方で、石田三成ら西軍の動向を徳川家康ら東軍に教えていた。

戦いの経過

西軍の北陸平定は大谷吉継が担当したが北陸から美濃へと転進する最中に、京極高次は海津を渡って大津城に撤退してしまった。ここで京極高次は東軍に寝返ったのである。大津城に引き返すと籠城を開始し兵糧を運び兵を集め、徳川家家臣の井伊直政に西軍を抑えると伝えた。この様子はすぐに西軍に伝わり、驚いた淀殿は妹であるお初と海津殿を使者として送り停戦・降伏を求めるが、京極高次はこれを拒否してしまった。そこで西軍は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂・小早川秀包ら九州方面の諸大名を中心とした約1万5000人の軍勢を大津城に向かわせた。

こうして慶長5年9月7日に大津城に総攻撃を仕掛けたことで、大津城の戦いが幕を切ったのだ。9月11日夜、京極高次の家臣である赤尾伊豆守らは兵500を率いて城外へ出て夜襲を行った。しかしながら翌12日には大津城の堀が埋められ、13日には総攻撃を受け大砲が城内に撃ちこまれた。砲弾が天守に命中するなどして、城内は混乱してしまった。その一方で京極高次も応戦するが、西軍側である立花吉右衛門や内田統続らが城壁に取り付いてしまう。 9月14日には高野山から使者である木食応其(もくじきおうご)が送られて降伏を促されるが、京極高次はこれを拒否する。しかし北政所の使者である孝蔵主が訪れると、家臣の黒田伊予の説得もあってついに降伏を決断した。

戦後

9月15日に京極高次は、大津城下の円城寺で剃髪し、70人ほどの家臣と共に高野山へ向かう。時を同じくして関ヶ原では西軍と東軍の合戦が始まっていた。当然ながら、大津城の戦いで送られた西軍約1万5000人の兵は関ヶ原に行くことはできなかった。正午過ぎには関ヶ原の西軍は総崩れとなり、東軍が勝利することとなる。 本来であれば立花宗茂・小早川秀包ら1万5000人の兵は関ヶ原で戦う予定であったが、大津城の戦いで足止めを食らってしまい参加できなかった。大津城の戦いだけで見れば西軍の勝利であったが、関ヶ原の戦いで敗れたことでこの勝利は無意味なものとなってしまったのだ。

大津城の戦いで敗れた京極高次は、徳川家康から大いに評価された。大名としての復帰を許しただけでなく、若狭一国・8万5000石を与えられ、慶長5年10月に後瀬山城に入り京極若狭守高次となった。更に翌年には近江国高島郡のうち、7100石が追加され9万2100石の大名となったのだった。





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