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「浅井畷の戦い」北陸の関ヶ原。信長時代からの縁、前田と丹羽の両氏が激突!
──慶長5年8月9日(1600年)

浅井畷(あさいなわて)の戦いは関ヶ原前哨戦の一つ。

利家の意に反して東軍に属す

豊臣秀吉の死後、その後を追うように慶長4年(1599年)に病没した前田利家。病に侵されていた利家は「長男の利長は、3年間加賀に戻ってはいけない。逆に次男の利政は、金沢城を離れてはいけない。豊臣に謀反を起こす者が出たら、利政は即座兵を率いて利長と合流し戦うこと」という遺言をしたためていた。

しかし、当の前田利長は遺言に従わずに金沢へ戻ってしまう。当時の豊臣政権は文治派と武闘派が対立しており、さらに両者の裏で徳川家康が暗躍していたため、利長はその状況に耐えられなかったといわれている。
この行動は「利長が暗殺計画を行おうとしている」と受け止められ、家康が前田家を武力で潰そうと画策するが、利長の母 "まつ"こと芳春院が自ら家康の人質になると決意して家康自身もこれを受け入れたため、実行されることはなかった。ただし、家康に人質を送るということは前田家が東軍に属することを意味した。加賀の近隣には大谷吉継などの西軍の勢力が多くいたことから、西軍から包囲網を敷かれることになる。

吉継の勧誘工作で越前や加賀南部の諸大名が西軍に属し、周囲が敵だらけになった利長は、現状打破すべく、慶長5年(1600年)の7月26日に2万5千もの兵を率いて出陣。西軍の丹羽長重の小松城を攻撃をはじめた。
小松城の守備兵は3000名しかいなかったが「北陸無双の城郭」といわれる程に頑丈な城であったため、利長の大軍を持ってしても落ちることはなかった。そこで利長は山口宗永の守る大聖寺城を攻めることに方針を変換。こちらはさほど堅固な城ではなく、8月2日に攻撃、陥落させて城主の山口宗永を自害に追い込んだ。

撤退戦

一方、大谷吉継は伏見城の戦いなどで上方にいたため、前田討伐に向えなかったが、同3日に越前の敦賀に入ると、軍事行動に着手する。

6千ほどの兵力だったためか、吉継は正面からの戦を仕掛けることはなく、嘘の情報を流して前田勢に揺さぶりをかけてきた。
「越後の上杉景勝が加賀を制圧しようとしている」、「西軍が伏見城を落とした」「大谷率いる大軍が援軍にくる」「大谷の別働隊が金沢城をねらって海路を北上している」etc… 

こうした偽りの情報を受けた利長は動揺し、8日に撤退をすることを決意する。しかし小松城で痛い目に遭わされていた丹羽長重がこれを見逃さない。前田軍が撤退するときに通るであろう浅井畷に自身の兵を展開して待ち伏せていた。そして前田軍が予定通り来たときに丹羽軍の武将である江口正吉らが攻撃をしかけてきたのである。

こうして前田軍の撤退時に「浅井畷の戦い」となる。当時の天候は雨で鉄砲が使えなかったことや、畷という道幅の狭いところで戦ったこともあり、前田軍は大きな苦戦を強いられたという。しかし、長連龍や山崎長徳ら殿を務めていた武将たちが合流したことにより徐々に形勢は逆転。最終的には丹羽軍を追い払うことに成功し、無事に金沢城に帰還することができた。

戦後

その後、利長は再び出陣して関ヶ原決戦の地へ向かおうとするが、弟の前田利政は「金沢城を離れるな」という父の遺言に従って、西軍に与する事を表明して動かなかった。こうした事情もあって、前田軍は9月11日にようやく金沢から出陣したが、関ヶ原決戦の勝敗が1日で決着がついたのもあり、同15日の関ヶ原本戦には間に合わなかった。

しかし、利長は戦後の論功恩賞で家康から評価されて新たな領地を与えられた。このことはのちの加賀百万石へとつながる。弟の利政は自領の能登を没収され、代わりに兄に与えられ、自身は京都での隠居生活を強要されることになった。なお、利政が西軍に加担したことを家康に訴え出たのは利長だったという。しかし、利長はその後に京都で暮らす弟の利政を援助していたことから、そもそも兄弟間にはじめから対立はなく、東軍と西軍のどちらが勝っても前田家が生き残るための計画だった、ともいわれている。

一方、西軍に加担した丹羽長重は、決戦後まもなくの18日に利長と和睦を締結、このとき当時6歳であった前田利常を人質として小松城に入れている。その後、長重は関ヶ原の戦いの処分によって一度改易されてしまったが、1603年に常陸国古渡の領地を与えられて復帰。さらに大坂の陣で多くの武功をあげたことにより、2代目将軍である徳川秀忠の御伽衆に抜擢され、常陸国江戸崎と陸奥国棚倉の領地も与えられた。





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