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「竹ヶ鼻城の戦い」関ヶ原前哨戦。
──慶長5年8月22日(1600年)

合戦の背景

1600年8月9日に石田三成は東軍を迎撃するために、織田秀信の岐阜城を中心拠点にして、両翼の犬山城と竹鼻城の前線防衛ラインを構築した。犬山城には城主の石川貞清、稲葉貞道、加藤貞泰らを派遣し、竹鼻城には城主の杉浦重勝、加賀野井秀盛、梶川三十郎を派遣した。それから、長良川右岸に石田三成の軍を置いた。

一方の東軍は池田輝政福島正則を清洲城に向かわせて、8月20日に東軍側はそこで軍議を開いて、岐阜城と犬山城攻略に向けて諸将の配置を取り決めた。この時の東軍の士気は非常に高くて、この後犬山城はあっさりと降伏することになる。 東軍は岐阜城に行くには木曽川を越えていく必要があり、渡河の候補地は上流の河田と下流の尾越の2つだった。 8月21日に福島正則や福島正之は尾越経由、池田輝政は河田経由で岐阜城に向かった。東軍は渡河に成功したが、この東軍の動きを察知したのが竹ヶ鼻城の杉浦重勝だった。城内で軍議を開いて東軍を食い止めるべく籠城戦を決意する。

合戦の経過

杉浦重勝は織田信長織田信雄、織田秀信と仕えていたこともあって東軍が岐阜城に行かないように、あらかじめ竹鼻城に入っていた。そして8月22日に福島正之の軍は渡河を果たして、その勢いのまま加賀野井城を落とした。それから杉浦重勝のいる竹ヶ鼻城に向かって城を完全に包囲する。福島正則は杉浦重勝に対して降伏勧告をするも、杉浦重勝はこれを拒否したので、激しい攻防戦が繰り広げられることになる。杉浦重勝は徹底抗戦をするも三の丸が破られた。二の丸で抗戦していた援将梶川三十郎と毛利掃部は、福島正則と旧交があったため、花村半左衛門とともに降伏勧告に応じて、開門して東軍を呼び込む。その結果、杉浦重勝に従う兵士は36名しか残らず本丸で苦しい戦いをすることになった。そうして最終的に本丸が破られたことで、重勝は観念して城に火を放ってその中で自刃する。このとき最後まで杉浦重勝とともに残っていたのは、わずか7名の兵士だった。

戦後

杉浦重勝は竹ヶ鼻城の戦いで破れて自刃したが、杉浦重勝と最後まで必死になって戦った7名の兵士は主の遺体を取り囲むようにして自刃した。このすさまじい光景に東軍の武将たちは杉浦重勝とその兵士の忠実ぶりに深く感嘆したという。また、この竹ヶ鼻城の戦いを勝利で迎えた福島正則らは池田の軍勢が岐阜城近くに進軍したという知らせを聞いて、負けじとそのまま岐阜城に向けて夜行軍を敢行した。そしてその日のうちに茜部村まで進軍して岐阜城はもうあと少しだった。それから池田輝政と福島正則は合流して荒田川河川敷に布陣する。8月23日に織田秀信が篭っている岐阜城に総攻撃を開始する。

実は池田輝政は岐阜城の城主だったことから、美濃の配下を数多く従えていた。彼らに道案内をさせて岐阜城の天守近くに一気に進軍して、本丸を除いて占領することに成功する。完全に劣勢に立った織田秀信は早々に降伏して開城する。難攻不落といわれた岐阜城がわずか2日で陥落した。織田秀信は助命されて出家生活を送って1605年に死去する。





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