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「大久保忠世」三河譜代として家康を支えた歴戦の勇将

大久保忠世の肖像画
蟹江七本槍や徳川十六神将などに名があるように、武人として大きな功績を残し、寛容な人物でもあった大久保忠世。数々の合戦を通して語られるのは、合戦における彼の積極的な姿勢といえるだろう。

人質時代より家康に仕える

大久保忠世は天文元年(1532年)、徳川家臣の大久保忠員の長男として誕生。徳川譜代の重臣として知られる大久保氏は、南北朝時代に三河国に土着したといい、その子孫が徳川家康の祖父にあたる松平清康に仕えることになったという。そして忠世の家柄は庶家であったものの、本家以上の功績をあげていったらしい。

忠世自身、家康に仕えてから多くの手柄を立てていった。家康がまだ今川人質時代を過ごしていた弘治元年(1555年)に、今川の一員として蟹江城攻めで功をあげたことで、蟹江七本槍の一人として忠世の名が残る。

家康が独立して最初の危機となった永禄6年(1563年)三河一向一揆では、少なくない家康家臣が一揆方として家康に背いたが、忠員・忠世父子は家康方に残った。
この三河一向一揆の際、忠世は相手方の本多九郎三郎と槍合わせになり、最終的に殺されそうになるが、この九郎三郎という人物は忠世の旧友であり、共に若い頃から親交があった人物であった。そこで「友人の首をとっても仕方ないだろう」という言葉をかけ、互いに笑い合ったという。また、家康が槍を受けそうになった時にも冷静に対処したといわれる。

旗本先手衆として活躍

その後、家康が三河国を統一すると、領国支配体制が整備された。忠世は "旗本先手衆" という家康直臣団に配属され、合戦の先導役として武功を重ねていくことになる。

忠世の武功として特に有名なものは、元亀3年(1573年)12月に起きた三方ヶ原の戦いであろう。この合戦は遠江国の三方ヶ原で武田軍と徳川軍が衝突し、徳川軍が大敗したことで有名な合戦である。
この頃の武田信玄は西上作戦と呼ばれる軍事行動を展開して勢力を大幅に拡大。その目的は上洛とも織田・徳川軍を倒すことともいわれているが、その途上の三方ヶ原で武田軍と徳川軍が衝突した。信玄は事前の戦略が上手くできていたこともあり、彼の戦略が見事にハマることに…。家康軍は劣勢を余儀なくされることになり、その死者の数は信玄軍が400人ほどにあるのに対して、家康軍は1000人以上に膨らんだとも。
こうした中、忠世は家康が命令する前から果敢に相手軍に立ち向かったとされている。これはそれだけ戦いに挑む覚悟があったという見方もあるが、一方で家康のコントロールが行き届いていないという事実を物語っているという見方もある。 当時の情勢や力関係を垣間見ることができる。

信玄の死後、後継者の武田勝頼との合戦となった天正3年(1575年)長篠の戦いにおいても、忠世は織田信長から賞賛の言葉をもらうほどの功績を残し、家康から "ほら貝" を与えられることになった。

知行は徳川家中で5番目!

豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げた天正18年(1590年)、家康が関東移封となった際に、これまでの功績を認められていた忠世は、小田原城4万5千石を与えられた。これは当時としては破格の待遇であり、徳川家中で忠世以上の知行を与えられたのは、家康二男の結城秀康、および、徳川三傑と呼ばれた本多忠勝榊原康政井伊直政の計4人のみである。

武功派として多くの戦功を立ててきた忠世は、蟹江七本槍や徳川十六神将のいずれにも名があることから、それだけ武将として優れていたこともわかるだろう。その一方で、三河一向一揆のときに家康に背いて流浪の身だった本多正信の帰参を助けるなど、優しい一面も持ち合わせている。

強さ・優しさ・賢明さを兼ね備えた人物であり、家康からも寵愛されていた忠世だが、徳川の世を迎えることなく、文禄3年(1594年)に没した。

なお、家督を継いだ忠世の嫡男・忠隣は、軍事の重要性が薄れていった豊臣の世において台頭し、徳川の時代には幕閣として大きな力を手に入れている。





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