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「酒井忠次」"海老掬い踊り" で多くの戦功を立てた家老

酒井忠次の肖像画
軍事・外交両面で才を発揮し、のちに徳川四天王の筆頭と評された酒井忠次。信康事件のときに信長に弁解をしなかったため、のちに家康から強烈な皮肉をいわれる羽目に!?

家康とは同じ先祖?

徳川家康第一の功臣として知られる忠次は、大永7年(1527)に松平家に仕えた酒井忠親の二男として誕生した。幼名は小平次。ちょうど家康が誕生した天文11年(1542)頃に元服して "忠次" と称し、以後は家康の父・松平広忠に仕えたようだ。

一説に酒井氏は、先祖が松平氏(徳川氏)と同じだと言われている。つまり、松平氏の庶流であり、三河松平譜代の筆頭という由緒ある系統なのである。

家康に仕え、今川方の将として戦う

広忠の死後、天文18年(1549)に家康が今川義元への人質として駿府に送られた際、忠次もこれに同行した。当時の松平氏は今川氏に服属していた時期であり、忠次は今川方として尾張の織田信秀との戦いに駆り出され、功をあげていくことになる。

弘治元年(1555)には三河国・福谷城の城主となっており、翌弘治2年(1556)に攻め寄せてきた織田軍を撃退している。(福谷城の戦い)
忠次は、この戦いで城外に出て奮戦し、織田方の将・柴田勝家を負傷させて撃退したという。
また、徳川家の記録に「敵もよく戦ったが、三河衆は死力を尽くして強敵を撃退し、大きな成果を挙げた」と残されている。

家康にとって転機となった永禄3年(1560)桶狭間合戦においては、先鋒隊として佐久間大学盛重の守備する丸根砦を攻め落としている。このとき忠次34歳、家康19歳であった。
戦後、家康・忠次らは敗戦による今川氏の混乱に乗じて松平氏の本拠・岡崎城に入城。忠次は松平家中で家康と家臣らとの間の文書における取次の奏者を務めたらしい。そして、翌年に今川からの独立を果たす。そのきっかけとなったのが織田信長との和睦交渉だ。
このとき同族の酒井忠尚は、過去三代にわたる織田家と松平家の対立の歴史から和睦に反対した。その一方で忠次は、今川氏真と信長とを猫と虎に例え、織田と手を組むように積極的に進言したという。

こうした経緯もあって、家康は信長と手を組み、今川家と決別したのである。

家康と姻戚関係に

桶狭間以後、時期は定かでないが、忠次は家康の叔母・碓氷殿を妻に迎え、家康と姻戚関係となっている。

彼女は松平清康と於富の方の娘であり、はじめ松平康高に嫁したが、桶狭間合戦で夫が討死したのちに忠次に再嫁したのである。 こうして忠次は、家康との結びつきを一層強めた。

東三河の旗頭へ

家康が独立を果たしてからの最初の苦難となった永禄6年(1563)三河一向一揆では、忠次は家康方に味方して一揆軍と戦っている。なお、同族で忠次の叔父とも兄ともいわれる酒井忠尚は一揆軍に与したが、一揆の鎮圧後は逃亡して駿河に逃れたといわれている。

家康は永禄7年(1564)、または永禄8年(1565)に今川方の東三河最後の重要拠点・吉田城を制圧して東三河をほぼ掌握した。このとき吉田城攻略の先鋒として計略で無血開城させた忠次は、その功績により、吉田城の守備と東三河の統括を命じられた。

この頃、徳川家臣団組織が整備されて "三備" と呼ばれる軍制が成立し、忠次は東三河の統率者として軍事指揮権を与えられ、松平一族や東三河国衆を指揮下におくことになったのである。ちなみに、西三河の統率者は石川家成(のちに石川数正に代わる)であった。

主な戦いにはほぼ参戦、外交の窓口も。

永禄11年(1568)、家康が遠江侵攻を行なう際、事前に武田信玄と今川領割譲の密約を結んだことで知られるが、このとき忠次は、武田の使者である穴山梅雪山県昌景と会い、家康と信玄の誓詞を取り交わしたという。
また、永禄12年(1569)の掛川城攻めの最中で、今川氏真と和議の話が進んだ際には、北条氏康から忠次宛に「和議の成就を願っている」旨の書状を受け取っている。
このように忠次は合戦だけでなく、取次としても活躍しているのである。

以後も多くの主要な合戦に参加している。

  • 元亀元年(1570)姉川の戦い(vs 浅井・朝倉連合)に先鋒として参戦し、朝倉義景の陣を破る。
  • 元亀2年(1571):居城・吉田城が山県昌景・武田勝頼らの攻撃を受けるが、これを撃退。
  • 元亀3年(1572):三方ヶ原の戦い(vs 武田)で右翼を担ったが、大敗によって退却を余儀なくされる。
  • 天正2年(1574):第一次高天神城の戦い(vs 武田)に参陣。
  • 天正3年(1575)長篠の戦い(vs 武田)に参陣。

特に長篠の戦いでは、別働隊として武田軍を背後から叩くべく鳶ヶ巣山砦を強襲し、守将の河窪信実を討ち取っている。また、設楽原の決戦では、武田軍本隊の退路を断つという極めて重要な役割を果たした。
忠次が武田軍の背後をついて城を陥落させたことから、後に信長から「背に目を持つごとし」と称賛されたという。

「信康事件」で一切弁解なし?

天正7年(1579)には、家康の妻子、すなわち築山殿と嫡男信康が突如死罪となる事件が起きた。

『三河物語』によると、忠次がこの事件に大きく関わっているようだ。内容は概ね以下のとおりである。

  1. 信康と正室五徳(信長息女)の不和が原因で、徳姫が酒井忠次を通して12ヵ条に及ぶ信康の悪行を信長に報告。
  2. 信長は書状を読み終えてから忠次に詰問したが、忠次は信康をかばうこともなく10ヵ条まですべて事実だと答えた。
  3. すると信長は、「家老の忠次がここまで承知しているなら、これ以上の詮議は無用。もはや疑う余地なし」として、家康に命じて信康に腹を切らせるように言ったが、忠次は弁解もせずに信長の前を退去。
  4. 忠次から信長の命を聞いた家康は、信長に背くこともできず、やむなく妻子の処断を決意した。

忠次が弁解しなかったことが事件の一因のように述べられているが、この事件は諸説あって定かではない。詳細は松平信康の記事をみてほしい。
ただ、家康は信康の事について、事前に忠次を介して信長に相談していたようだ。

徳川三傑の台頭と忠次の隠退

天正9年(1581)には、徳川軍は武田の手に渡っていた遠江・高天神城を奪還することに成功するが、このとき忠次が討ち取った敵将の首は42を数えたという。ちなみに、石川数正が40、本多忠勝が22、榊原康政が41、鳥居元忠が19だったという。

信長の死と徳川の5カ国領有

天正10年(1582)の本能寺の変の際の家康は、忠次らわずか数十名のお供のみを連れて堺を遊覧中であった。このとき、家康一行が三河に帰還するまでの危険な道のりにおいて忠次も同行している。(神君伊賀越え

織田領となって間もない甲斐・信濃・上野の武田旧領は、信長の死によって一揆が勃発する等の混乱が起こり、領主不在の状態となった。三河に帰国した家康は、空白地帯となった武田旧領を確保するため、まもなく動きだした。(天正壬午の乱
忠次は先発して信濃侵攻を行ない、同国の国衆らを次々と懐柔。だが、信濃国が自分に与えられたものと解釈して国衆らに高圧的な態度で接したらしい。このためか、諏方頼忠や小笠原貞慶らの離反を招き、彼らは北条氏直に従属してしまったという。

この戦いは最終的に徳川氏と北条氏の和睦となり、徳川は甲斐・信濃を得て5カ国を領することになった。なお、このときの和睦条件で、家康の娘が北条氏直に嫁ぐことになったが、翌天正11年(1583)に家康の娘が北条氏・小田原城へ赴くとき、忠次がこれにお供して北条氏と折衝を重ねたという。

隠居

天正12年(1584)、徳川勢と羽柴秀吉勢との唯一の合戦では、その端緒となった羽黒の戦いにおいて先鋒として森長可池田恒興らを襲撃し、敗走させている。(小牧・長久手の戦い
また、翌天正13年(1585)に再び秀吉との対決がせまる中、家老の石川数正が突如出奔して秀吉方に属すと、天正14年(1586)には、秀吉の懐柔を受けた家康がついに上洛し、秀吉の軍門に降った。

忠次はこのとき、徳川家中で最高位の従四位下・左衛門督に任命され、秀吉から近江国内に1000石と京都に宅地を与えられたという。そして、天正16年(1588)に長男・家次に家督を譲って、秀吉より与えられた京都の地に移って隠居したのであった。

には、徳川三傑と呼ばれる本多忠勝・榊原康政、そして井伊直政の3人が徳川家臣団の中枢を担っていた。
ちなみに徳川四天王とは、彼らに忠次を付け加えた4名のことを指す。

天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家は旧北条領である関東へ移封となった。
徳川三傑の知行は、井伊直政12万石・本多忠勝10万石・榊原康政10万石だったのに対し、酒井家は嫡男家次が下総国臼井にわずか3万7千石であり、大きく差をつけられたようである。

一説に、忠次は長男・家次の知行の少なさに家康に加増嘆願したが、これに対して家康が「おまえも子がかわいいか?」と返答したという。かつて家康嫡男の信康が死罪となったとき、忠次が弁護しなかったことを暗になじられたのである。

慶長元年(1596)に京都・桜井屋敷で死去。享年70。





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