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「鳥居元忠」"三河武士の鑑" と称される家康の忠臣

鳥居元忠の肖像画
天下を取った徳川家康には数多くの優秀な家臣達がいた。いわゆる徳川四天王と呼ばれる酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政らは特に有名だが、この他にも実に多くの家臣たちが家康の覇業を支えたのは、衆目の一致するところであろう。
そんな徳川家臣団の中にあって、元忠の存在感は独特のものがある。それは元忠が迎えた最期のインパクトが強烈なため、彼の存在感が増しているとも言えるのだ。

家康に近侍し、ともに人質生活を過ごす

元忠は天文8年(1539年)に三河国碧海郡渡郷に誕生。三英傑の誕生年、すなわち織田信長は天文3年、豊臣秀吉は天文6年、徳川家康は天文11年の生まれであるため、元忠は彼らとほぼ同世代の人物である。

元忠の父・忠吉は三河の戦国武将松平家の家臣であったため、元忠はその父の元に生まれた時点で松平家(のちの徳川家)に仕えることは決まっていたと言っていい。松平家は隆盛を誇った時期もあったが、徐々に勢力を失っていき、東の戦国大名である今川家と西の新興勢力である織田家との狭間で揺れ動き、結局は今川家に人質を出してその勢力下に入る事となった。

この時、人質に送られたのが松平竹千代(のちの家康)であることは広く知られている。家康の側に仕えていた3歳年長の元忠は、人質に送られた家康に付き従って今川家の本拠地駿府へと赴き、彼を守り支える役割を担ったのである。
人質生活の中で支え合った家康と元忠の間には堅い信頼関係が築かれ、それは生涯変わることがなかった。

旗本先手役として功を重ねる

飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していた今川家が、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで織田家に敗れると、家康は三河国へ戻って信長と軍事同盟を結び、戦国大名として今川から独立を果たす。それまで今川家の家臣の家臣(いわゆる陪臣)に過ぎなかった元忠も、家康が三河統一した後には徳川家の旗本を率いる武将へと出世した。すなわち家康の直属部隊として配属され、徳川軍団の有力家臣、すなわち朴訥な忠誠心で知られる三河武士を束ねるリーダーの一人になったのである。

だが、今川から独立を果たしたとはいえ、徳川家の勢力は全国規模でみればまだまだ小さく、家康と元忠ら三河武士団は苦戦が続き、戦場を東奔西走することになる。というのも、同盟国の信長が15代将軍足利義昭を擁立して上洛した後、将軍と不和となって敵対勢力が徐々に増えていくからである。

元亀元年(1570年)に起きた姉川の戦いでは、織田家と共同戦線を張り、元忠たちの活躍もあって勝利を収めることが出来たが、のちに元亀争乱と呼ばれる事になる畿内を中心とした大混戦にあって、戦況はなかなか好転しなかった。そして、今川家に変わって東方の新しい脅威となっていた武田信玄が大軍勢を率いて徳川領内に侵攻してくる。それが元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いである。

この戦いは、徳川家にとって最悪の戦いとなった。本拠地浜松城のすぐ側で大敗北を喫し、あわや滅亡かという局面まで追い詰められたのだ。しかし、敵将の信玄が急遽没した為に、徳川家は文字通り命拾いすることになる。とはいえ、徳川方の敗北のダメージは大きく、元忠はこの戦いで足を負傷して後遺症が残ったと伝わっており、弟の忠広は戦死してしまっている。だが、信玄の死を契機として情勢は少しずつ信長・家康たちに傾いていくことになる。

信玄の死から3年後、織田・徳川連合は天正3年(1575年)長篠の戦いで武田家に大勝したことで、その勢力圏を徐々に奪っていく。元忠もこの戦いに従軍して活躍しているが、この時討ち死にした武田方の名将・馬場信春の娘がのちに元忠の側室になっているのは奇妙な縁とも言える。

さらに戦国の動乱は続く。天下人を手中に収めたと思われた信長が天正10年(1582年)に本能寺の変で討たれると、家康は東海と甲信越を中心に勢力を固めるべく、合戦に明け暮れた。
そうした中において、元忠は武田旧領の争奪戦となった同年の天正壬午の乱において、甲府で北条氏忠・氏勝軍を破る武功を立て、戦後には甲斐都留郡を与えられている。このように三河武士の代表格として家康の信頼は一貫して厚かったようだ。

なお、span class="year">天正12年(1585年)には真田昌幸が徳川から離反したため、上田城へ攻め込んでいるが、このときは真田の知謀に敗戦している。(第一次上田城の戦い)

関ヶ原の前哨戦・伏見城の戦い

信長の後を継いで豊臣秀吉が天下を取ると、徳川家は丸ごと関東地方への移封を命ぜられた。この時、四天王をはじめとして有力家臣たちが関東の重要拠点を任されるのだが、元忠は下総の矢作城主となっている。石高は4万石で四天王に次ぐ大きさであったことから、ここでも家康が元忠にかけた信頼が伺える。

そして、元忠の人生のクライマックスが訪れる。それは豊臣家の奉行だった石田三成が西軍を糾合し、家康の東軍と戦った天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原合戦である。

ここで元忠は重要な役割を担った。三成が畿内で挙兵した時、家康たちは関東にいた。元忠も家康と同行してしかるべきだったが、家康と相計ったうえで敢えて元忠は京都伏見城に残っていたのである。なるべく多くの徳川の軍勢を連れて京都を離れれば、三成は挙兵するだろうと家康側は予測していたという。徳川家の誰かが京都に残ることになるが、三成挙兵後は援軍もなく敵中に孤立する役割になる。いわば捨石だ。それを元忠は自ら引き受け、しかも兵力の大半を貴重な決戦に備え家康本隊に回したのだった。

元忠はこの時すでに60歳を超えていた。ながく家康に仕えてきた自らの役割を全うしたのだとされる。
伏見城は西軍の大軍に囲まれたが、老いてなお猛将の元忠のもと、全滅するまで城兵は戦い抜いた。元忠たちが籠城戦で稼いだ日数が徳川勢の作戦を有利に導いたとも言われている。戦場に散ったその姿は忠義に熱い三河武士の鑑だと絶賛され、後々まで語り継がれることになるのである。

この戦いで伏見城の床に流れた元忠たちの血の痕が忠義のしるしと有難がれ、血痕の付いた板は京都市内の寺院の天井板に再利用された。秀吉の側室淀殿が建てた養源院などが有名で、「血天井」の名で知られている。鳥居元忠の忠義心を現代にまで伝えてくれる貴重な歴史史跡である。





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