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「今川氏親」『今川仮名目録』を制定し、戦国今川氏の礎を築いた義元の父

今川義元の父として知られる今川氏親は駿河・遠江の守護で駿河今川家9代当主。分国法『今川仮名目録』を制定し、今川氏を守護大名から戦国大名へと発展させた。

父の死と家督争いの勃発

文明3年(1471年)(異説として文明5年(1473年)説も)、今川6代当主の今川義忠と北川殿との間に誕生。幼名は「龍王丸(たつおうまる)」。

当時、世は応仁の乱の真っ只中であり、東軍に属していた父義忠は、京での争いが一段落したところで帰国し、遠江国の攻略をねらっていた。なお、西軍には遠江守護であった斯波義廉が属していた。
文明6年(1474年)ごろ、義忠は本格的に遠江へ侵攻を開始し、一進一退の攻防を繰り広げたが、文明8年(1476年)に斯波氏に従属していた遠江国衆の横地氏・勝田氏らに勝利した凱旋途中、一揆勢力に襲われて戦死してしまう。

龍王丸(=氏親)はまだ6歳前後であったため、今川家では家督相続が問題となった。当初は一門の範満を代行者として今川一門で一致していたという(『今川家譜』)。しかし、文明11年(1479年)に8代将軍・足利義政から龍王丸の相続を認める書面がだされた。これは裏で北条早雲が将軍申次として働きかけたものとみられている。

これに対し、範満派として上杉政憲や、扇谷上杉氏の家宰・大田道灌が介入して争いが表面化。範満は駿河南部の小鹿に居住していたことから小鹿範満と呼ばれており、彼の母は堀越公方の重臣・上杉政憲の娘だったのである。

伊勢新九郎の調停・軍事介入

上述してきたように、今川氏の家督争いは竜王丸派と小鹿範満派との間で国を二分する事態となったが、ここで伊勢新九郎(のちの北条早雲)が調停に入り、龍王丸が成人するまでは範満が家督を代行するという形でこの事態を解決させたという。

北条早雲はのちに関東の北条氏の初代当主となり、戦国大名の祖として知られる将である。この家督争いで早雲が竜王丸を支持したのには理由がある。早雲の出自に関してはこれまで諸説あったが、近年では伊勢盛定の子の "伊勢新九郎" とされ、盛定は幕府政所執事の伊勢氏の一門であり、幕府申次衆であった。そして、龍王丸の母・北川殿は早雲の姉にあたるため、「龍王丸=早雲の甥」なのである。
こうした血縁関係から、早雲は今川氏の客将として室町幕府との架け橋を担っていたとみられている。

その後、龍王丸が成人した文明19年(1487年)になっても範満は家督を返上せず、さらに家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫してきた。この状況に早雲は再び駿河に下向して、駿河の今川館にいる範満を急襲して討ちとった。
こうして龍王丸は晴れて今川氏当主となり、駿河館に入った。このとき龍王丸は早雲の功績を評し、富士郡下方庄12郷と駿東郡の興国寺城を与えたという(『今川家譜』『今川記』)。

同年、龍王丸は駿河志太郡東光寺に黒印状を発給している。内容は東光寺の配下の諸給主に対し、諸公事を免除し、それぞれの給地を安堵したもの。この発給文書は大名で初めて印判状(印判を用いた武家文書)を使用したものであった。
なお、竜王丸が元服して"氏親" と称すようになるのは延徳元年(1489年)頃である。

早雲とタッグで勢力拡大

氏親の課題として、まずは家督争いをするような駿河国内の分裂状況を統一して安定させる必要があった。以後、氏親と早雲の両者は軍事行動をともにし、勢力を拡大していく。

明応2年(1493年)には堀越御所が内紛を起こし、将軍・足利義澄から討伐の命が出ると、氏親は早雲と共に義澄の異母兄・足利茶々丸を討伐して伊豆を手中にした。その後の氏親は、積極的に遠江国への進出を図り、遠江の守護・斯波義寛と対立することになる。

遠江国は元々は今川氏が守護を行っていた国であったが、斯波氏にその地位を奪われていた。父・義忠も遠江奪還を試みて戦死しており、遠江奪還はまさに今川氏の悲願であった。

明応3年(1494年)、氏親は早雲の力を借りて遠江中部までを勢力下に収めることに成功。一方、自らも早雲の関東進出に協力して山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦(長享の乱)に介入し、扇谷上杉家に味方して山内上杉家と戦っている。

永正元年(1504年)には扇谷上杉氏の上杉朝良の救援要請に応じて早雲と共に関東へ出陣、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と戦い、上杉顕定を敗走させている(武蔵立河原の戦い)。
永正3-5年(1506-8年)には再び早雲の力を借りて三河へ侵攻し、松平長親(長忠)と戦った。永正6年(1509年)以降は、早雲が政治的に今川氏から独立し、関東進出を本格化させることになる。

遠江平定&分国法の制定

永正5年(1508年)、足利義澄が従兄弟の足利義稙に将軍職を奪われた際、氏親は義稙を支持して正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た。このころ、公家出身の寿桂尼今川義元の母)を娶り、京とのつながりを強めている。しかし、斯波氏が領国支配回復のために反撃を開始し、永正7-10年(1510-13年)にかけて西遠江で激しい戦いが繰り広げられた。

永正13年(1516年)に引馬城(現在の浜松市)の大河内貞綱が今川氏を裏切り、義達と手を組んだ。氏親は出陣して引馬城を包囲し、引馬城を降伏させることに成功。貞綱は討ち死、義達は出家して降伏して尾張へ送り返された。これにより、今川氏の悲願であった遠江を平定した。

なお一方で、氏親は永正12年(1515年)に甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方し、守護・武田信虎と争って中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。そして永正14年(1517年)に信虎と和議を結んで撤兵し、大井信達は信虎に降伏となった。しかし、その後も、たびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立は続いた。

永正15年(1518年)以降、氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために検地を実施し、さらに安倍金山を開発して財政基盤も強くしていった。

大永6年(1526年)には戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定。この分国法の成立をもって名実ともに戦国大名としての立場を明らかにしたとされている。同年、駿府の今川館で息を引き取った。享年53。





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