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「臼井城の戦い」謙信、白井入道浄三の知略にまさかの大敗!?
──永禄9年(1566年)

臼井城の戦いは、謙信の関東遠征での戦いの一つにあたる。

合戦の背景

上杉謙信は関東管領に就任した前後より、北条氏との戦いでたびたび関東遠征を行なっていたが、川中島合戦に代表される武田信玄との戦いもあって関東出兵に専念できる状況にはなかった。こうした背景もあり、北条氏の反撃や上杉方に味方していた関東諸将らの離反を招くことになる。

永禄8年(1565年)、武田信玄・北条氏康の両氏が関東の上杉方の支城を攻撃しはじめた。 出陣要請を受けた謙信は同年11月に三国峠を越えて関東に出陣。同月27日には北条氏から圧迫を受けていた安房国の戦国大名・里見義弘が謙信軍に参陣している。

合戦の経過

関東で年を越した謙信は常陸国へ進出し、永禄9年(1566年)の2月に小田城の小田氏治を降伏させると、続けて西下総・船橋へも侵攻。下総や船橋には港があり、物資の集積地点として兵糧や軍事物資などが調達しやすい地域であった。そのため、上杉謙信は北条軍との戦いを優勢に進めるため、この地を掌握したかったのである。

臼井城の戦いの要所マップ

そして、ついに3月20日、上杉軍は北条方の下総臼井城を攻めた。

臼井城主は当時、千葉胤富の家臣・原胤貞が城主であった。当初は上杉軍が里見氏と連携して優勢に戦いを進めた。 上杉軍の約1万5千の兵に対してわずか2千余りと数で劣る原胤貞は、北条軍の千葉氏に援軍を求めたが本城の佐倉城を優先して援軍を送らない。北条氏も送って来たかと思えば松田康郷150人余り──。

臼井城方は次第に追い詰められ、落城も時間の問題であった。しかし、原胤貞の軍師白井入道浄三の知略により、これがターニングポイントになり次第に臼井城方に好機がおとずれる。

『北条記』によれば、白井入道浄三は「敵は大軍だが恐れる事はない。味方の士気は敵方のそれよりはるかに強いから敵が敗軍となることは間違いない。」旨を言い、味方を必死に鼓舞したとされる。

上杉方がジワジワと攻め寄せるのに際して、白井入道浄三は城門を開き、突然打って出るという行動に出た。 第1陣の原氏と高城氏が先鋒をつとめ、第2陣の酒井氏と平山氏が続いた。特に第3陣の赤鬼・松田康郷の活躍はすさまじく、上杉軍の本陣近くまで攻め寄せて痛手を与えた。

翌日も、臼井城の軍勢が打って出て来るだろうと思って構えていた謙信だったが、敵は一向に出てこない。 どうしたものかと迷う謙信に対し、家臣の海野隼人正は、「今日は千悔日と言って、先に攻めると負ける日です。敵方には白井浄三という武将がいるので、おそらくその指図でしょう」と進言するが、業を煮やして家臣の長尾氏を先鋒として総攻撃を命じる。

それを待っていたかのように白井入道浄三は城壁を崩して攻め寄せて来る長尾氏の兵数百名を一気に下敷きにしてしまう。 これに乗って、白井入道浄三は上杉軍に対して総攻撃を命じる。

上杉方の新発田氏や北条氏の軍が必死に奮戦したが、雪崩のように上杉軍は崩れ、同月23日には上杉軍は数千人の死者を出したと「戦国遺文」には記述がある。24日には上杉軍の敗戦が決定的になり、4月には関東から撤退を余儀なくされたのであった。

戦後の影響など

この臼井城の敗戦により、上杉謙信方についていた上野・下野・常陸の諸将は離れていく事になる。関東の平定が困難と考えた、上杉謙信は北条氏からの越相同盟の申し入れを受ける事になった。この臼井城での戦いにおいて、上杉軍の退却のきっかけは、もちろん、臼井城方の家臣たちの活躍による所が大きいのは言うまでもないが、将軍家足利義昭の使者が臼井の上杉陣営を訪れ、北条氏と和睦して幕府のために上洛するようにと伝えたのが退却のきっかけになったという説もある。

この戦での上杉軍の死者の数については諸説あり、北条氏政は武田信玄に「上杉軍は数千人の負傷者と死者が出た」と伝えたという記録が「諸州古文書」に残る。また、「豊前氏古文書抄」には足利義氏が家臣の豊前山城守に「5千余りの負傷者と死者が出た」と伝えたという記録がある。しかし、上杉方の「海上年代記」には「三百余人討ち死に」という記載があり、被害状況は少なめである。

白井入道浄三については、利胤・親胤・胤富の千葉氏三代に仕えた武将とされるが、別説では、三好三人衆の三好長逸に仕えた後、関東に下ったとの説もある。臼井城の戦いの後の行動は不明である。

北条氏からの援軍で活躍した松田康郷はその後、北条氏政から、感状と長光の太刀、相模国足柄下郡に200貫の知行を得た。その後も北条氏の将として活躍したが、小田原城開城により北条氏が滅亡すると、徳川方の結城秀康に仕えたという。

臼井城の戦いの際に甲冑具足を朱色で揃え奮戦した松田康郷を上杉謙信は称えた。そして、「鬼孫太郎」「松田の赤鬼」などの異名を取ることになる。





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