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「唐沢山城の戦い」下野の佐野氏に手を焼いた謙信。
──永禄3年~元亀年間(1560年~)

佐野氏の居城・唐沢山城(現在の栃木県佐野市)を舞台に、およそ10年にも及んだことで知られる唐沢山城の戦い。 上杉謙信と北条・武田連合との抗争に巻き込まれる形となった城主の佐野昌綱は、その狭間でたびたび離反と従属を繰り返して生き残りを図るのだ。

あの謙信が2度も撃退される!?

上杉謙信の関東遠征において、欠かせない重要拠点だった唐沢山城。この地における最初の戦いは、永禄3年(1560年)に攻め寄せてきた北条氏政の大軍との抗戦といわれ、このとき昌綱は謙信に援軍を要請して撃退したという。

永禄4年(1561年)、謙信ら関東遠征軍が北条氏康の本拠地・小田原城にまで攻め込んだが、このとき昌綱も遠征軍に加わって従軍している。(小田原城の戦い
だが、謙信が帰国すると、北条軍は反撃を開始して唐沢山城にまで迫ってきた。佐野氏は謙信に援軍を要請するも、当の謙信は甲斐の武田信玄と川中島合戦を繰り広げていたため、援軍を出す余裕はなかったようだ。こうして昌綱はやむなく北条方に降ることになったのである。

謙信は佐野が北条に降伏したことを知ると、これを反逆とみなし、同年12月に唐沢山城に攻め込んだ。 だが、さすがの謙信でも、関東一の山城と言われ、難攻不落の城で知られる唐沢山城を陥落させるのは容易ではなかったようだ。

結局このときに城は陥落せず、冬の到来もあって謙信は撤兵して厩橋城で年を越している。年が明けて永禄5年(1562年)の3月に再び唐沢山城へと攻め込んでいるが、このときも謙信は攻めあぐねて撤兵を余儀なくされている。
あの謙信を2度にもわたって退けたのだから、佐野昌綱の武名は関東諸将らに響き渡ったことであろう。

裏切りの連続。老獪すぎる昌綱

永禄6年(1563年)の2月には、北条方が上杉方の拠点・松山城を攻め落とすなど、謙信が越中国へ出兵している間に関東の情勢は北条方が優勢となっていった。しかし、ここから謙信の大反撃がはじまる。

謙信は再び関東遠征を開始すると、次々と北条方の支城を陥落。4月には唐沢山城も攻め立て、ついに昌綱を降伏・開城させている。さらに勢いは留まる事を知らず、武蔵の騎西城や忍城、下野の祇園城、下総の古河城・結城城、常陸の小田城など多数の敵城を攻略している。


昌綱は再び臣従したかと思いきや、謙信が下野国を去ると、永禄7年(1564年)の2月には再び反旗を翻す。これに対して謙信はすぐさま唐沢山城を攻撃。このとき行なわれた戦いは数回にわたる唐沢山城の戦いの中でも最大の激戦になったといい、謙信軍の猛攻に佐野軍も徹底抗戦したという。

堅固な唐沢山城がすぐに陥落することはなかったが、北条氏は安房の里見氏との戦いに追われていたため、援軍を派遣することはなかった。自力で奮戦した佐野軍だが、持ちこたえることができずに再び降伏となったのである。

なお、たび重なる離反にもかかわらず、昌綱は常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏の助命嘆願によって命拾いしている。

同年8月には謙信と武田信玄が第5次川中島合戦で対峙しているが、その隙をついて北条方は北関東に軍勢を派遣し、昌綱は再び北条方に降った。しかし、謙信は10月に唐沢山城へ攻め込んで昌綱は三度降伏させた。このとき、謙信は昌綱から人質をとって越後へ帰国している。

上杉と北条という2つの大国に翻弄された昌綱だが、人質の効果もあってこの後しばらくは謙信に従属。だが、永禄9年(1566年)に関東の情勢が変化し、多くの関東諸将が北条方に与し、昌綱は北条方の圧迫を受けたことで再び北条方へと転じたのである。 これをきっかけに永禄10年(1567年)の2月、謙信は唐沢山城攻めに出陣。だが、関東諸将の援軍も得られず、さらに雪も相まって苦戦となった。そこで雪解けを待つことにして一旦撤退し、翌3月に唐沢山城攻めを再開して結果的に降伏させている。

その後、武田信玄が弱体化した駿河今川氏を滅ぼそうと駿河侵攻を行なったことにより、武田と北条の同盟関係は破綻。謙信は北条方から和睦要請を受け、永禄12年(1569年)には越相同盟が成立。ここに関東における上杉・北条両者の争いは収束することになる。

一方、佐野昌綱は元亀元年(1570年)の正月に再び謙信に背いている。このとき謙信は唐沢山城に向けて出陣したものの、真冬だったことから撤兵したとされている。

こうして唐沢山城における謙信と佐野氏との攻防は収束したとみられる。以後、佐野氏は常陸国の佐竹氏と同盟を結び、上杉・北条の両氏に対抗したのであった。





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