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「菊姫」景勝の正室となった信玄の五女。

戦国の女性の記録は少ないが、武田信玄の娘である菊姫は、その人となりがうかがえるエピソードが残るなど、信玄の娘だけにある種の存在感を放っている。信玄の子に生まれ、信玄の宿敵上杉家に嫁いだ彼女の生涯とは、どんなものだったのだろうか。

思惑の錯綜する政略結婚

菊姫は永禄元年(1558年)武田信玄の五女として生まれた。永禄6年(1563年)生まれの六女との説もある。母は武田一族の油川氏の女性で、信玄とこの女性の間には菊姫を含め複数の子がおり、それぞれが戦国の数奇な人生を生きた。

天正元年(1573年)に父信玄が死去し、菊姫の異母兄・武田勝頼が武田家を継ぐと、それまでの外交同盟関係が変化を見せる。天正6年(1578年)上杉謙信が急死し、その後継者を巡って越後で御館の乱が起きると、勝頼は上杉家に接近していく。乱を制した上杉景勝が後継者に定まったのを見た勝頼は、長年の宿敵であった上杉と同盟を結ぶこととした。

天正7年(1579年)、このいつ破れるかもわからない同盟を固めるため、政略結婚が計られる。上杉景勝と菊姫の結婚がそれである。この時点で、武田と上杉の同盟がいつまで続くかなど、誰にもわからない。菊姫の運命は、行く末の見えない、思惑の錯綜する嫁入りにゆだねられた。

実家の滅亡

武田氏は、かつての長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗してからというもの、家中の求心力は徐々に衰え、天正10年(1582年)には遂に織田信長軍の侵攻を許す。菊姫と父母を同じくする兄の仁科盛信と葛山信貞は、戦場で命を落とした。勝頼は逃亡の末、天目山の山中で一族もろとも自刃。菊姫の姉妹の松姫も途中まで勝頼に同行し、命からがら逃げ伸びて八王子で尼となった。

こうした一族の悲劇を、菊姫は越後でただただ受け入れるよりなかったろう。菊姫は当時25歳で、景勝との間に子はいなかった(その後も子は出来ていない)。政略結婚で嫁いだ女性の実家が滅亡すると、同盟の意味が失われるため、正室の地位を下ろされることは当時よくあった。しかし、武田家滅亡後も景勝は菊姫を丁重に扱っている。景勝の姿勢は上杉家全体に及び、甲州夫人または甲斐御寮人と呼ばれながら、家臣から質素倹約の賢夫人として敬愛された。これらのことから、景勝と菊姫の夫婦仲は良かったと考えられている。

伏見の社交界

武田滅亡後まもなく、本能寺の変で信長が非業の死を遂げ、やがて秀吉の豊臣政権が台頭すると、上杉家もその支配体制に組み込まれていく。有力大名の妻女は人質として京都伏見に集められることとなり、菊姫は天正17年(1589年)12月に上洛。伏見の上杉家の館に住むことになった。のちの江戸幕府の政策と同じである。

人質ではあるものの、伏見には日本中の大名の妻女が集ったため、一種の社交界が生まれていた。武田家の血を引く菊姫のネームバリューは高く、父信玄の正室が京の公家出身だったこともあり、公家との交流を盛んに行なっている。特に上杉家と朝廷の取り次ぎ役だった勧修寺晴豊とその妻との交流は数多く、夫の景勝や上杉家臣を交えて親しく付き合っていた。天正19年(1591年)2月には、菊姫が晴豊の妻にフナ50匹を贈った記録が残っている。

伏見での死と武田家

菊姫が伏見で暮らしている間、様々な政変や大地震が京都を襲ったが、それに関係した菊姫の記録はない。結局亡くなるまで、菊姫は伏見の上杉屋敷で暮らした。文禄4年(1595年)9月に、秀吉から上杉家が賜った屋敷に移ったのが数少ない彼女の動向記録だ。この時、景勝の腹心である直江兼次の妻お船の方も一緒に住んだとある。年齢が1歳違いと近く、仲が良かったのかも知れない。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの年には、妙心寺の亀血庵に移っていたらしい。

慶長8年(1603年)冬頃から病を得て、翌年2月16日に伏見で死去した。47歳だった。夫の景勝はちょうど上洛中で、この時期に伏見にいたはずなので、最期の時間を共に過ごした可能性は高い。景勝や家臣は、菊姫の死を大いに悲しんだと伝わっている。

彼女を看取った人物の中に、信玄の七男武田信清もいた。武田家滅亡後に菊姫を頼って越後に逃げ延び、上杉家の家臣となって米沢武田家を興している。上杉にとって宿敵だった家系だが、菊姫への敬意が厚い家中では、一目置かれる存在として明治まで続いた。また、菊姫の姉妹の松姫は、八王子で信松尼と名乗り、武田家の菩提を弔いながら元和2年(1616年)まで存命している。





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