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「長尾政景」景勝の父。一度は謙信に背いた上田長尾家出身の将。

長尾政景の肖像画
上杉景勝の父で知られ、上杉謙信に謀反を起こしたのちには忠臣として活躍した長尾政景。数々の武功をたてた武将の最期はなんとも不可解なものであった。

誕生~長尾家中の内紛

長尾政景は大永6年(1526年)に上田長尾家の長尾房長の次男として誕生。

父房長は長尾家の本家にあたる越後長尾氏・長尾為景とは長年対立関係にあった。坂戸城の城主でもあった房長は、関東管領でかつ主君でもある上杉顕定が越後に侵攻した際にその味方となり、越後守護代の為景を撃破しているが、天文6年(1537年)には為景と和睦し、一説にこのとき為景の娘である綾と房長の嫡男政景を結婚させることになったという。この「綾」こそがのちの仙洞院であり、彼女の弟が長尾景虎(のちの上杉謙信)である。

この頃の越後国内の情勢は、国衆の反乱が頻発していまだ統一されておらず、常に不安定であった。府中長尾家では、為景の隠居後に嫡男の長尾晴景が家督を継いだが、彼はこうした国内をまとめることはできなかったようだ。このためか、晴景は弟の謙信を還俗させて栃尾城主に任命して反乱鎮圧に向かわせたのだが、これが功を成して国人たちによる反乱が見事に鎮まった。

その後も謙信は合戦で功を立て続けたため、家中では謙信を当主に望む声が大きくなっていき、やがて晴景派と謙信派の対立が生じて家中が二分されていった。この状況の中で政景は晴景方に加担している。謙信方にはかつて上田長尾氏と対立関係にあった古志長尾氏がいたための判断とみられる。

天文17年(1548年)、家中は一触即発の事態になったにもかかわらず、関東管領の上杉定実が仲裁役を買って出た。その結果、晴景は謙信を養子にした上で彼に家督を譲って隠居。このときの謙信はまだ19歳であった。

坂戸城の戦い

政景は関東管領の仲裁結果に納得いかなかったが、その間に関東管領の上杉定実が天文19年(1550年)2月に死去したり、同月に謙信が室町幕府13代将軍・足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆を使用することが許されるという好待遇を受ける。そんな中、同12月にはとうとう謙信に対して謀反を起こした。(坂戸城の戦い)

しかしながら、軍略に優れていた謙信は、年明けの天文20年(1551年)に政景に加担していた発智長芳の居城である栃木城を攻撃。陥落はできなかったものの発智長芳は大きな打撃を受けた。さらに同年8月に謙信が政景の本拠地・坂戸城を攻囲すると、政景は謙信に使者を送って和平を申し出た。
これは実質的な降伏であった。謙信は老臣たちの必死の説得、そして実の姉・仙洞院が政景に嫁いでいること等から、政景を許すことにした。なお、このときの和睦で政景と仙洞院の結婚が成立したという説も存在する。この結果、謙信による越後統一が達成となった。

謎の溺死

以後は謙信に忠節を誓い、翌天文21年(1552年)には父の死で坂戸城主として家督を継いだ。弘治元年(1556年1月)には仙洞院の間に次男の長尾顕景(のちの上杉景勝)が誕生。弘治2年(1556年)の謙信出家騒動のときには、これを止めるよう説得。永禄3年(1560年)には数々の戦功を評価されて春日山城の留守居役を任された。

このように謙信の重臣として順風満帆だった政景だが、永禄7年(1564年)に突如事故で命を断たれた。

この事故に関しては、酒を飲みすぎて船から野尻池に投げ出されて溺死したという説、謙信の命を受けた宇佐美定満によって謀殺されたという説などあるが、いずれも定かではない。また、このとき一緒に船に同船していて溺死した家臣の国分彦五郎の母親の後日談では、政景の遺体の肩あたりには傷跡があっとされている。享年38。
なお、遺児になった景勝はまだ10歳で、父の死に伴って春日山城に入って謙信の養子になった。のちに景勝は謙信の後を継いで、乱世を生き抜き、上杉家を存続させている。





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