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「長尾為景」謙信の父。越後守護代となった下克上の代表格。

越後守護代・長尾為景は上杉謙信の父。上杉定実を傀儡として擁立し、越後守護の上杉房能を追放して下剋上をはたしたことで知られる。その後、定実とも敵対し、定実ら越後守護勢力を中心とした反勢力との戦いに苦しめられ、越後国統一は果たせずに隠居した。

二心を抱く為景

越後守護代職を世襲した三条長尾家の出身であり、1489年(延徳元年)※異説ありに越後守護代・長尾能景(ながお よしかげ)の子として誕生。幼名を "六郎" といい、のちに "為景" と称した。

父とともに越後守護の上杉房能に仕えていたが、1506年(永正3年)に父・能景が越中一向一揆との戦いで戦死してしまった(般若野の戦い)。
これを受けて長尾氏の家督と越後守護代の職を継ぐことになるのだが、この父の死が為景の心に大きな変化を引き起こし、為景の下剋上のきっかけとなる。

かねてから守護の上杉房能と父の能景はしばしば越後の覇権を巡って対立していた。そして、能景が戦死した際に房能は援軍を出さなかった。一説には、為景は父を見殺しにした房能を恨んでいたという。

下剋上で越後の実権を握る

こうした経緯もあり、翌1507年(永正3年)には房能に対して反旗を翻し、房能の養子となった上杉定実を擁立し、房能の居館を襲撃すると、最終的に房能を自害へ。さらに翌1508年(永正4年)、定実の継室として妹を嫁がせ、上杉定実を傀儡の守護とするのである。

これで為景が越後国の実権を掌握したかにみえたが、1509年(永正5年)には関東管領の上杉顕定が大軍を率いて攻め込んでくることに・・。

これは越後守護の上杉房能が討たれたことによる為景への報復にほかならない。顕定は上杉房能の実兄だったのだ。

大軍を前にして劣勢となった為景は、一旦は定実とともに佐渡国へ逃亡。だが、為景はまもなくして反撃の準備を整えると、1510年(永正7年)、佐渡の軍勢をも加えて再び越後へ上陸し、反攻に転じた。
一方で越後府内を制圧していた上杉顕定は、その統治に不満を持った越後国衆から反発を受けて越後からの撤退を開始した。為景はこれを見逃さずに追撃し、援軍にきた為景の外戚・高梨政盛が顕定を討ち取った(長森原の戦い)。
こうして為景は下剋上をはたしたのであった。

傀儡の主君・上杉定実との対立

越後の実権を取り戻した為景が専横をふるうようになると、主君・定実とは徐々に不和になっていった。

そして1513年(永正17年)には上杉定実とその弟の上条定憲(じょうじょう さだのり)などの越後守護勢力と為景勢力との間で抗争が勃発した。
以後、為景は断続的にではあるが、越後守護勢力との戦いに苦しめられることになる。

1520年(永正17年)には越中守護代の神保慶宗(じんぼう よしむね)を討っている(新庄の戦い)。

この神保慶宗は為景にとって父の仇であり、父・能景が一揆勢に討たれたのは慶宗の裏切り行為があったからだとされている。
また、慶宗は越中守護の畠山氏から独立し、畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)とは対立関係にあったため、尚順が為景の戦功を褒めたという。

1521年(永正18年)には一向宗を信仰することを禁止して一向宗門徒の弾圧にあたった。また、同年の12月には畠山尚順の要請に応じて越中国に出陣しており、尚順から越中国新河郡分郡の守護代に任命された。

越後の内乱に苦しむ為景

1533年(天文2年)には上条定憲が再び、為景への攻撃を開始。定憲は上田長尾氏や揚北衆の他、会津の蘆名氏や出羽の砂越氏などの国外勢力も味方につけて、為景への攻勢を強めたのであった。

こうした内乱に苦しめられていた為景は1535年(天文4年)には朝廷から御旗を、翌1536年(天文5年)には内乱鎮定の綸旨を賜っており、内乱の収拾をはかろうとしたようである。
同年、三分一原の戦いでは上条定憲に大勝しているが、その後、家督を嫡男・晴景に譲って隠居した。

為景は朝廷や室町幕府を尊重して献金を行うなど、家格を上昇させて守護の権威からの自立を図ったものと考えられており、朝廷から官位・従五位下、信濃守を与えられている。

1543年(天文11年)、越後国の内乱の渦中、病死した。





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