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「斎藤朝信」”越後の鍾馗”と呼ばれた武勇の将

上杉家にとって欠かせない家臣だった斉藤朝信。武将としての志の高さに定評があり、多くの仲間にも一目置かれる存在であった彼の生涯とは?

抜きん出た存在感

斎藤朝信といえば、上杉家の武将として各地を転戦して数々の武功をたて、その勇猛さから「越後の鍾馗」と呼ばれた勇将である。 「鍾馗」とは、中国に伝わる道教系の神を指し、日本においては学業成就や魔除けの効果もある神である。

朝信の一族である越後斎藤氏の出自ははっきりしないが、室町時代から戦国時代にかけて越後赤田城(現新潟県刈羽村)に居住していたとされ、はじめは越後守護の上杉氏、その後は謙信の一族である越後守護代の長尾氏に仕えたという。越後斎藤氏の中で有名なのはどうやら朝信だけであり、他に存在感を持つ者はいないようだ。朝信は斎藤定信の子として誕生。彼の生誕時期や幼少期は不明だが、やがて上杉謙信に仕えるようになり、徐々に頭角を現すようになる。

謙信に重用される

朝信は謙信から絶大な信頼を勝ち得ていた。その信任の高さを物語るエピソードとして、永禄4年(1561年)3月の小田原城の戦いの後に行なわれた謙信の関東管領職の就任式では、柿崎景家と共に太刀持ちを務めたという。太刀持ちを任せるという点にそれだけの信頼が厚いということがいえる。朝信は戦術家としても評判が良く、強敵を相手にする場合には決まって朝信が抜擢されていたらしい。
さらにその後まもなく、甲斐の武田信玄との間で川中島最大の激闘といわれた第四次川中島合戦が勃発すると、朝信は事前に不穏な動きをする一向一揆の備えとして山本寺定長と一緒に越中国に出陣し、謙信本隊が川中島に入るのを助けたと伝わる。

以後も、下野国の佐野氏との唐沢山城の戦いなど、各地を転戦して功をあげたと思われる。なお、天正3年(1575年)時点での戦いぶりを知ることができる『上杉家軍役帳』によると、朝信は217名にも及ぶ兵役を負担したとされる。このことから、謙信からの信頼を勝ち得ていたことがうかがえる。

百姓にも慕われる人柄

謙信の躍進を支えたことでも有名な朝信だが、謙信死後もその活躍がとどまることはなかった。朝信のさらなる功績として大きかったのが、天正6年(1578年)3月13日に勃発した御館の乱ではないだろうか。

この乱は、謙信の死後まもなく、謙信の2人の養子・上杉景勝上杉景虎の両派に分かれて勃発した家督争いであった。このとき朝信は景勝を支持し、その過程で景虎派を支援する武田勝頼との交渉を努めるなど、戦局を有利に進めることに大きく貢献。最終的には景勝方が勝利をおさめており、戦後の天正8年(1580年)に刈羽郡の六ヶ所と三条城主・神余親綱の旧領を与えられるなど、景勝から高く評価されている。

謙信・景勝の二代に渡って忠義を尽くし、武闘派としてのイメージが強い朝信だが、武辺一辺倒というわけでもない。柿崎景家と共に奉行職を務めたり、城主として内政にも携わっているからである。また、自らの家臣や百姓も大切にする心の持ち主だったゆえ、万人から慕われていたという。

織田信長の晩年に、北陸方面から柴田勝家率いる織田軍を魚津城で撃退したのを最後に朝信の事蹟は途絶える。本能寺の変で信長が横死した頃に老齢で隠居したといい、文禄元年(1592年)頃に死去したといわれている。
なお、家督は朝信の子・景信が継いで、子孫は米沢藩士として幕末まで続いた。





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