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「国分盛重(伊達盛重)」政宗の叔父

武将シルエット2
伊達晴宗の五男として生まれ、次男の伊達輝宗の命により国分氏のもとに遣わされたり、輝宗の子・政宗に攻められ佐竹義宣の元へ出奔するなど、何かと伊達氏に人生を翻弄された国分盛重。50を手前に伊達盛重と名乗るも、その後も波乱に満ちた一生を送った盛重の生涯に迫る。

政宗の叔父にあたる

盛重は天文22年(1553年)に、伊達氏の第15代当主である父・伊達晴宗と母・久保姫の五男として誕生した。同じく晴宗と久保姫の間に生まれた、のちに伊達氏第16代当主となる伊達輝宗は次男であり、盛重の兄にあたる。さらに輝宗は永禄10年(1567年)に、のちの世で第17代目当主となる伊達政宗を授かる。そのため、晴宗と政宗は叔父・甥の関係となる。政宗が第17代当主となってからは、盛重は立場を転々としながらもその生涯を閉じるまで伊達氏の武将として戦績をあげた。幼名は彦九郎とし、元服時は政重と名乗っていた。

天正5年(1577年)に国分氏の当主の後継者として送り込まれる際には国分政重と名乗り、国分家の家中からの内紛によって家を出ることとなる直前に国分盛重と名を変え、最終的には天正19年(1591年)前後に伊達氏に復帰する際伊達盛重と名乗った。

国分氏の代官として遣わされる

陸奥国宮城郡の国分氏の当主である国分盛氏が天正5年(1577年)に死去し、跡継ぎが不在となった。これにより、国分氏の家臣・堀江掃部が当主を迎えたいと伊達氏に働きかける。これに応じた当時の伊達氏第16代目当主・伊達輝宗は、弟である盛重(この当時は政重と名乗っていた)を当主の後継者として送り込んだ。しかし、国分氏の家中では盛重を嫌う者もおり、これがのちに波乱を巻き起こす種となる。

輝宗は、自分の子(第二子・次男)が生まれた際にその子を送ること、そして盛重はそれまでの代官にすぎないことを条件に堀江掃部を納得させ、同年12月に盛重は国分家に入った。 形式的には伊達氏の臣下とならずとも、のちに盛重が当主になったことにより国分氏は結果的に伊達氏に従属することとなった。 また、国分氏がずっと争っていた留守氏に関しても、輝宗が弟・伊達政景(伊達晴宗の三男)を留守氏へ養子として送り込むことで、和解し国分氏を安定させたのである。

家中の反発による伊達氏への復帰

天正13年(1585年)人取橋の戦いに、国分家の当主として参戦した盛重は政宗の下で主力のひとつとして戦果をあげた。しかし、のちに国分家内での盛重への反発は増大していくこととなり、天正15年(1587年)に家臣・堀江長門らが反抗の動きを見せ始めた。これを危ぶんだ政宗は、伊藤重信や留守氏に養子入りした政景たちを国分に幾度か派遣し、家中の反発を取りなそうとした。だがそれでも不満がおさまらなかったため、政宗は盛重の政治がよくないのではと考えて国分を滅ぼそうと考える。

これを知った盛重は、政宗のいる米沢まで参上して謝罪したという。なおも国分氏の反発の声は静まらなかったものの、政宗は国分攻めを取りやめた。盛重はこの後国分へ戻ることはなかったが、国分氏の家臣は政宗の直轄となった。長年おさまらない国分家内での反発をおさめるために、事前に政宗と盛重の内密の打ち合わせがあったのではという説もある。

嫌疑を晴らすため人質へ

天正18年(1590年)に起きた葛西大崎一揆を平定するために出陣する政宗と会津領主・蒲生氏郷であったが、政宗が一揆を煽動したのではと氏郷に疑いをかけられる。その際、嫌疑を晴らすために伊達成実と盛重が蒲生氏郷のもとへ人質として送られる。翌天正19年(1591年)に嫌疑が晴れて盛重は伊達氏へと復帰することができ、その際に国分盛重から伊達盛重へと改名する。これが、盛重の最終的な名乗りとなっている。

天正20年(1592年)に政宗が朝鮮の役に参戦するために九州へと出陣し、それに伴い盛重は岩出山城を守る家臣の一人として参列した。余談ではあるが、豊臣秀次文禄4年(1595年)に切腹させられたのち、秀次と関係が近かった政宗が謀反への関与を疑われることとなる。嫌疑を晴らすために、身の潔白と今後の忠誠を記す誓詞を出す際、他の家臣よりも伊達彦九郎盛重の名前が先に書かれていた。このことによって、盛重は伊達氏の中でも武将として重んじられていたと推し量ることができる。

佐竹氏への出奔

原因や動機は不明とされているが、盛重は慶長元年(1596年)もしくは慶長4年(1599年)に伊達家を出奔する。ただ、当時は家臣が処遇に不満を抱いて出奔するのは珍しいことではないという。現に、伊達家は遠藤宗信と伊達成実も出奔している。盛重は甥である佐竹義宣の元へと出奔し、その家臣となった。 盛重は侍大将としての処遇を与えられて、島崎城に住むこととなった。

佐竹氏に従って、慶長5年(1602年)とともに秋田へと移り、1000石と横手城を与えられて秋田の伊達氏の主体となっている。こののち、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に従軍して、今福の戦いで奮戦したとされるが、翌年の夏の陣では病気のために従軍しなかったため政宗の怒りを買う。この病気が治りきらずに元和元年(1615年)7月15日にこの世を去った。享年は63歳であった。

輝宗・政宗親子に翻弄された波乱の人生

元服したのちに伊達輝宗に国分氏の元に後継者として派遣されるも、のちに長年の家中の反発が爆発して追い出されることとなる盛重。このあとも政宗の嫌疑を晴らすために人質となったり、伊達氏にもどったあとも処遇が悪く佐竹氏のもとに出奔したりとさんざんな目にあっている。





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