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「義姫」政宗の母。出羽国の戦国大名・最上氏の血筋。

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義姫は山形城主・最上義光の最愛の妹であり、2度も戦場へと赴いた鬼姫だ。伊達輝宗の妻で、政宗の母でもあった彼女は、伊達家と最上家の両家の宿命の中で翻弄された生涯を歩んだ。戦乱の時代を生き抜いた義姫の歴史とは?

伊達家と最上家のために翻弄される義姫

義姫は、出羽国の山形城で最上義守の娘として生まれた。兄の最上義光と仲が良く、頻繁に連絡を取り合っていたことが分かる手紙が残されている。

永禄7年(1564年)には、最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ。当時は珍しくなかった政略結婚である。永禄10年(1567年)8月3日、義姫が19歳の歳に梵天丸(のちの伊達政宗)を産み、そして小次郎、二女を産んだ。

天正12年(1584年)になると、政宗が伊達家の家督を継いだ。翌年には輝宗が二本松義継に殺されたため、未亡人となった。その際に、隠居した伊達輝宗の影響力を恐れた伊達政宗が謀殺したのではないかと疑い、不信感を抱いた。さらに、政宗は各地に進撃を繰り返し、最上家との遠縁になる塩松氏にまで攻め込んだり、最上家の本家の大崎氏に攻め込んだことから、政宗への不快感が募っていく。

義姫の兄の最上義光も警戒感を強め、伊達・最上家の対立は深刻化していった。そしてそれと同時に義姫の立場も危うくなっていった。しかし、その後の伊達家と最上家との大崎合戦では、両家の間を取り持って停戦を促した。義光は屈辱を感じながらも妹の頼みを受け、停戦した。義姫は80日間の停戦ののちに和睦まで成功させている。
その後は義光が伊達家・大崎家の調停へと動くが、伊達家は最上家に不信感を持っていたためにうまく機能しなかった。 しかし、義姫へと両家を取り持つように哀願した書簡を送り、両家の和睦へと導くことができた。 緊迫化する伊達家と最上家の間を取り持っていたのは、義姫だった。

実の子の政宗への複雑な感情

時は変わり天正18年(1590年)、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐へ参陣しようとしていた。その時に、義姫が毒入りの膳を政宗に差し出す事件が起こった。政宗は毒入りの膳を口にしたが、解毒剤により死には至らなかった。政宗は実の母親から毒を盛られ毒殺されかけたので、義姫を信じることができなくなった。
この件に関して政宗は義姫へ直接手を下すことはなかったが、その代わりに義姫が大切に可愛がっていた小次郎を、復讐として自らの手で惨殺したと言われている。この事件は当時の資料が残っていないことに加え、江戸時代の治家記録に記載されているので、さまざまな説が残っている。

文禄3年(1594年)には、屋代景頼が上洛したその留守中に、義姫は岩出山から出奔して山形の最上家へと戻ったとされる。慶長5年(1600年)には、奥羽で慶長出羽合戦が勃発した。その際に最上義光より政宗に援軍の要請がきたが、義姫からも書状が届いた。政宗は周囲の進言を聞き入れず母の安否を気遣って援軍を派遣したと言われている。その後、義姫から感謝の書状が届いている。

慶長19年(1614年)に義姫の兄、最上義光が没すると、最上家は混乱して内紛が起こり、以前とは様変わりしてしまった。義姫は最上家での行き場を失ったために政宗を頼り、元和9年(1623年)に、仙台城に入った。最上家の惨状に深く悲しんだ義姫は米沢にて落飾し、保春院と号した。晩年の義姫は目が悪くなり、足も不自由であった。そして同年7月17日、76歳で死去した。

最上と伊達の両家のために気丈に戦う

義姫は言い伝えによると、気丈な女性であったと言われている。男勝りで勝気で頭も良く、政治にも積極的に関わってくるほど行動的な女性であった。当時の男が前に出て女は後ろに控えているような時代の女性としては、随分と珍しいタイプだったようだ。その性格を象徴するようなエピソードがある。

天正16年(1588年)に伊達氏が最上・大崎の連合軍と対立して一触即発の状態になった。当時は伊達政宗は常陸の佐竹氏と会津の蘆名氏と対陣中であり、身動きが取れなかった。そこで義姫は動き、最上・伊達両軍の間に輿で単身乗り込み、勇猛果敢な働きで両者を説得し、和睦までさせている。

さらに慶長5年(1600年)の長谷堂合戦の時には、山形城に迫った上杉勢から守るために兄の最上義光が伊達政宗に援軍を頼んだところ、義姫も先んじて同じように手紙を送り、窮状をいち早く知らせて素早い救援を要請している。この時に義姫が政宗の叔父の留守政景に送った手紙が現存している。

その内容は、上杉・最上両軍の正確な配備と各地で起こっている戦闘内容、落城が差し迫っている緊迫した状況を的確に知らせていた。女性とは思えないほど的確で冷静な内容であった。この手紙により、政宗は上杉軍がいる白石城を攻略していたが、すぐに留守政景を総大将とする援軍を派遣。このことにより、力を盛り返した最上勢が上杉勢を撃退することに成功した。

これらのエピソードから、男勝りで頭が良く行動的な義姫の側面を垣間見ることができる。決断力と行動力、そして過激なほどに勇気のある彼女の行動が当時の歴史を大きく動かしたのである。

伊達家と最上家、両家の安泰のために奔走した義姫

最上家の安泰のため、伊達家の伊達輝宗と政略結婚をして、政宗と小次郎を産み、両家が争ったときには和睦のために戦場にまで馳せ参じた。彼女は両家に翻弄されたが、男勝りで誇り高く気丈ながらも、強烈なほどに情深い女性であった。





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