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「郡山合戦」蘆名・相馬連合軍を撃破!
──天正16年2-7月(1588年)

郡山合戦は、現在の福島県郡山市周辺の安積郡郡山城・窪田城一帯を舞台にした伊達政宗と、蘆名義広や相馬義胤を中心とした連合軍が対立した大規模な戦いである。

合戦の背景

この合戦の背景には伊達政宗が相馬氏や蘆名氏と対立関係にあったことが挙げられる。

伊達と相馬氏とは、現在の福島県須賀川周辺を支配していた二階堂氏を巡り、もともと対立関係にあった。一方で伊達と蘆名氏は、かつて友好関係を築いていたが、天文の乱以降は激しく対立するようになる。

天文の乱とは、政宗の曾祖父・伊達稙宗とその子・晴宗の対立をきっかけに勃発した、およそ6年にも及んだ争乱である。奥州勢力がそれぞれの側に付いたために激しい戦いが繰り広げられたのだが、蘆名家はもともと稙宗方だったのに、途中で晴宗方に寝返ってしまう。これが決定打となって晴宗が家督を継ぐことになるが、このときの裏切り行為は晴宗にとっては良かったが、乱世においてこうした裏切り行為をする者は信頼できず、のちに伊達・蘆名の関係は徐々に悪化していくことになる。

天正15年(1587年)の3月、蘆名氏と佐竹氏との婚姻政策の一環として、佐竹義広が蘆名の当主に迎えられると、堰を切ったかのように相馬氏や諸勢力をも引き込んで伊達氏に積極攻勢を仕掛けるようになった。

合戦の経過

天正16年(1588年)の2月には、政宗が大崎氏の内紛に軍事行動を起こして介入(大崎合戦)。このとき、政宗が北方で軍事行動を行なっているのを好機とみた蘆名義広は、南方から4千の軍勢で伊達家の領地に進撃を開始。同月12日には苗代田城を攻略し、その後は郡山城・窪田城・高倉城・本宮城と伊達家の南領地を立て続けに攻め続けた。

【郡山合戦 周辺マップ】


これに対して伊達方は、伊達成実を中心とする軍勢で対抗するも兵数が500人程度だったため、その圧倒的な兵力差で防戦一方に終始する始末であった。さらに、そうしている間に北方においては蘆名家の援軍として最上義光が侵攻して各所を攻略されていく。そして小手森城主・石川光昌が相馬義胤に寝返る事態も起こり、政宗は南北双方に対処する必要に迫られた。

こうした状況を打開するために政宗は調略作戦に出る。
実は伊達の所領の南側を攻めていた大内定綱と蘆名義広は必ずしも親密な主従関係を築いていたわけではなかった。いわばギブアンドテイクの関係だったため、伊達家の一部の所領を与えることを条件に伊達家側に付くこと政宗は提案した。定綱はそれに応じて伊達家に寝返った。これで南方の問題は解決した。

5月に入ると北方を攻め立てていた最上義光と防戦していた政宗の間に、政宗の母であり義光の妹である義姫が双方に停戦を呼びかける。これにより、北方での戦線が膠着状態に入ると、政宗は蘆名家と相馬家の攻撃準備のために南に兵を動かした。相馬義胤は田村氏の所領を確保していたが、田村氏の伊達派グループによって追放されて反伊達連合軍から撤退。

7月郡山城と窪田城を攻囲するために進軍していた蘆名義広と政宗が互いに砦を築いて40日間にもわたる攻防戦を繰り広げた。40日間も戦い続けたということは小競り合いに終始したことの証左である。双方ともに大規模な攻撃を仕掛けられなかったのは理由がある。政宗としては北方が最上と膠着状態でいつまた再戦するかわからない状況で兵力をすべて投入することができなかったのである。
一方の蘆名義広も当主である佐竹義重が豊臣秀吉から和睦するように再三にわたって督促されていたという状況があった。同月中に最上と伊達の和睦が決定して最上軍が撤退すると、蘆名軍も攻略を諦めて撤退した。

戦後

合戦が終わった後については、8月5日に政宗が相馬義胤を追放した田村氏の当主に愛姫の従弟である田村宗顕を据えた。田村領を実質的に自分の領地として確保したという形になった。こうしてみると政宗としては領地を拡充させたことになるため、この合戦 は政宗勝利とみる歴史家も多い。
それまで政宗は合戦をしても負け戦ばかりでここ3年間はほとんど連敗続きであった。そうした連敗に終止符を打つことができたという意味と、父の輝宗が亡くなってから苦杯をなめ続けてきた政宗が拡大に転じる契機になったという意味で、郡山合戦は彼の人生の大きなターニングポイントになったといえる。しかしながら、この合戦は豊臣秀吉から発せられた惣無事令を無視した行動だったため、政宗がこれ以降に手にした安積、岩瀬、白河、石川などを含めた8郡の領地が没収対象になってしまうのである。

この合戦でもっとも戦い続けたのは7月4日に蘆名義広軍と激突してからの40日間であったが、意外にも犠牲者の数が少ない。伊達政宗側はわずか70人前後、蘆名義広側も200人程度しか出ていない。これは戦い続けた期間は長かったものの小競り合いに終始していたことが大きい。結局、持久戦にもかかわらず双方とも兵力温存することになった。





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