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伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選

仙台城の伊達政宗騎馬像
仙台城の伊達政宗騎馬像

「伊達政宗」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。

独眼竜と呼ばれ、鋭い三日月型の兜がトレードマークの仙台の戦国武将。 ほとんどの日本人が名前は知っているでしょうし、だいたいこんなイメージを抱いていると思われます。 近年では歴女と呼ばれる歴史好き女子などから支持され、真田幸村などと共に特に人気が高い武将でもあります。 ゲームやアニメなどでもズバ抜けてカッコいいイケメンに描かれることが多いのも政宗公の特徴です。

では、実際はどんな人で、何をした人なのでしょうか。東北を支配し、秀吉や家康に仕えた人気武将の偉業を史跡とともに紹介していこうと思います。
(文=taka)

伊達政宗といえば仙台というイメージが強いですね。仙台城跡には騎馬にまたがる政宗公の凛々しい銅像が建っており、今も鋭い眼光で街を見守っているかのようです。 実は政宗公の生まれは現在の山形県米沢市なのですが、生い立ちを紹介する前に「これぞ伊達政宗めぐり」と言うべく、多くの史跡やゆかりの地が満載な仙台へまずは足を運んでみたいと思います。

仙台駅に降り立つと「るーぷる仙台」という観光のために市内を巡回する可愛らしいバスが目に入りました。 気になったので乗り場まで行ってみると、これが非常に便利で主要の観光スポットにはほとんど全て立ち寄ってくれます。 600円で乗り降り自由というお得な一日乗車券もあり、史跡めぐりをするには最適の手段だと思います。ぜひこれに乗って政宗めぐりをしてみて下さい。

ループル仙台は、仙台駅から30分毎(土・日・祝および8月全日は20分毎)に出ていますが、一方向走行で逆回りがないので止まる順番にめぐることになります。まずは仙台駅からるーぷるに乗って3つ目のバス停、「瑞鳳殿」から見ていきましょう。

瑞鳳殿

仙台藩の祖である伊達政宗の遺命により造営された霊廟「瑞鳳殿」は人気の観光スポットであり、伊達政宗ファンにはたまらない一番人気のスポットとなっています。杉木立に囲まれた豪華絢爛な霊廟は見る者を圧倒する雰囲気がありますし、何よりも実際にこの場所に政宗公が眠っているというのだから必見中の必見なのです。

瑞鳳殿本堂
瑞鳳殿本堂

この瑞鳳殿は、昭和6年に国宝に指定されたのですが、昭和20年の戦災によって惜しくも焼失。現在の建物は昭和54年に再建されたものですが、5年の歳月をかけて当時の資料と実測精査に基づき、焼失前と同様の豪華な様式や装飾が復元されました。 桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な装飾はとてもカラフルで現代美術と見比べてもおしゃれで圧倒的な美しさを誇っています。

バスが瑞鳳殿前に止まるとほとんど全ての人がここで降りました。ゆるい上り坂の参道は杉の老木に囲まれ静けさと厳かな雰囲気で気温が少し低くなり不思議と背筋が伸びるような思いがしました。参道の石段は藩政時代から続くもので、瑞鳳殿のある丘陵は経ヶ峯と呼ばれています。

江戸時代初期の1636年、70歳になった政宗は、ホトトギスの初音を聞くために経ヶ峯に登り、従者に死後はここに葬るべき旨を命じたと言われています。そして病を押して江戸参勤に上りますが1ヶ月後に江戸の桜田屋敷で亡くなります。その翌年、遺命通りに、ここ経ヶ峯に政宗公の墓所が造営されました。
そんな政宗公の思いを感じながら参道を歩くと鳥のさえずりすら政宗公を偲んでいるように聞こえるから不思議です。

参道の先には「涅槃(ねはん)門」と呼ばれる立派な正門がまず目に飛び込んできます。

涅槃とは煩悩を取り去った悟りの境地となる状態を意味し、広くは来世や死後の世界を表す言葉でもあります。 戦火により焼失する前はこの涅槃門は香木で造られており、焼けている時に辺り一面にかぐわしい香りが漂っていたとの話もあるそうです。涅槃門を復元する時は、さすがに高価な香木を使うことは出来ず、樹齢数百年の青森ヒバという檜を使っているそうです。

涅槃門をくぐり、さらに石段を上がると瑞鳳殿が壮麗な姿を現します。

極彩色豊かで絢爛豪華に飾り立てた建築や塗装は、当時こんなにも色鮮やかで美しい技術があったのかと感動すら覚えます。 細かい彫刻や装飾に心を奪われ時を忘れる程の見事な建築物でした。麒麟など空想上の生き物も多く掘られておりそれらを探すのも楽しいです。そしてこの本殿の下、まさに自分が立っている足元に今も伊達政宗公が眠っていると思うと恐れ多い気持ちになります。

ここが空襲で焼失し再建される前に地中から政宗公が掘り起こされ、DNA鑑定が行われ頭骨をもとに容貌像が復元されたりしたようです。

遺骨は再び霊屋の下に埋葬されましたが割と完全な形で残っていたとのことで、多くの事実が分かりました。なんと伊達政宗は身長159cmでほっそりした顔をしており、血液型はB型なのだとか…。

瑞鳳殿の境内には二代忠宗公の感仙殿、三代綱宗公の善応殿などもあり、こちらも絢爛豪華な建築です。

瑞鳳殿境内の感仙殿
瑞鳳殿境内の感仙殿

資料館は御供所を再建したもので副葬品や復元容貌像などを展示解説しているほか、発掘調査の様子を記録した映像も視聴することができます。自然豊かな瑞鳳殿は桜や青葉、紅葉に雪と四季折々で表情を変え、歴史好きでなくとも散策に最適なスポットです。

所在地
宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:地下鉄東西線「大町西公園駅」より徒歩15分。JR仙台駅西口よりループル仙台で「瑞鳳殿前」下車 徒歩5分。

瑞鳳寺

瑞鳳殿へと向かう参道の途中に、瑞鳳寺があることもお伝えしておきましょう。

瑞鳳寺
瑞鳳寺

瑞鳳寺は伊達家の菩提寺で仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって江戸時代初期の寛永14年(1637年)に藩祖・伊達政宗廟である瑞鳳殿と共に建立されました。色彩豊かな細工で彩られた美しい山門は東京品川の伊達屋敷の門を模したものだそうです。

境内には、高尾門や鐘楼、伊達忠宗寄進の梵鐘などのほか殉死した家臣や戊辰戦争および西南戦争での戦死者らの墓があります。 瑞鳳殿へ直行する人がほとんどですが、緑に囲まれた静かな雰囲気の瑞鳳寺にもぜひ立ち寄ってみてほしいです。

所在地
宮城県仙台市青葉区霊屋下23-5
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:地下鉄東西線「大町西公園駅」より徒歩15分。JR仙台駅西口よりループル仙台で「瑞鳳殿前」下車 徒歩5分。

仙台市博物館

それではまた観光バスるーぷるに乗って移動しましょう。ひとつ隣が「博物館・国際センター前」というバス停になります。ここにある「仙台市博物館」は伊達政宗ファンは必見の博物館なので、ぜひ先に立ち寄って欲しいです。

仙台市博物館
仙台市博物館

入口近くには伊達政宗の胸像が建っており、仙台城の騎馬像だと顔を間近に見ることが出来ませんが、こちらは目の前で見る事が出来ます。

仙台の伊達家から寄贈された重要文化財「伊達政宗所用具足・陣羽織」をはじめ、支倉常長に関わる慶長遣欧使節関係資料(ユネスコ記憶遺産・国宝)など、季節ごとに展示内容を変えながら常時1000点ほどが展示されており、仙台藩の歴史・文化・美術工芸資料など約9万点も収蔵している見応えたっぷりな博物館です。

解説も多く、仙台や伊達家や政宗公についての知識もここで改めて頭に入れてから次の仙台城に向かうと、より視野が広くなり楽しみ方も増してベストだと思います。

所在地
宮城県仙台市青葉区川内26
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:地下鉄東西線「国際センター駅」より徒歩10分。JR仙台駅西口よりループル仙台で20分「博物館・国際センター前」下車。

仙台城跡

また観光バスるーぷるに乗ってひとつ隣の「仙台城跡」に行くのもいいのですが、ここは散策しながら歩いて行くのがおすすめです。

博物館から緑に囲まれた静かな雰囲気の道を仙台城に向かって登っていきます。途中の城壁や石垣などが長い歴史を経ているのが伝わり、本当に見事で思わず見入ってしまいます。政宗公も同じように見上げたであろう、大きな石垣には圧倒されました。

当時に思いを馳せながら登っていくと、一気に開けて城があったであろう広い敷地が現れます。そこで真っ先に目に飛び込んでくるのは、馬にまたがり凛々しく街並みを睨みつけている伊達政宗の騎馬像でした。

街が一望できる高台から見下ろしている後ろ姿だけでもかっこいいのですが、前に回り込むと正面の姿もまた当然ですがかっこいいです。仙台に来たらこの騎馬像を見ないと帰れないというほどの存在感と貫禄があります。

独眼竜と呼ばれた伊達政宗ですが、この像や肖像画などにはちゃんと両眼があります。 政宗公は幼いころに病で右眼を失いましたが、本人の遺言により後世に残る画や彫像などには両眼を入れるようにと伝えたそうです。

── 親から授かった健全な身体をこのようにしてしまったのは不幸このうえない。片眼の像などでは産んでくれた母親に申し訳ないから両眼を付けるように。──

そんな遺言だったそうです。政宗公の産んでくれた母を想う気持ちが伝わってきます。

仙台城跡からみた仙台市の景色
仙台城跡からみた仙台市の景色

そして、もうひとつの見所がここから見下ろす仙台市中心部から太平洋までを一望できる素晴らしい展望でしょう。 遠くまで見渡せる大パノラマは絶景と言えますし、景色は変わったかもしれませんが政宗公もこの場所からこの大パノラマを眺めていたはずです。そう考えると感慨深いですし、どんな思いで天下を睨んでいたのか興味がつきません。

仙台城は天然の要塞である青葉山に築いた天守閣のない本丸中心の山城でした。 天然の要害・青葉山に建つことから「青葉城」とも呼ばれる仙台城は、400年以上前に藩祖・伊達政宗公に よって築城されました。 秀吉や家康に目をつけられないように、あえて天守閣のある城は築かなかったそうです。 仙台藩2代藩主・伊達忠宗の時代に、二の丸と三の丸が山麓に築かれました。 現在では二の丸跡が東北大学、三の丸跡が博物館となっており、その広大な敷地に驚かされます。

現在の仙台城跡の鳥瞰図
現在の仙台城跡の鳥瞰図

残念ながら本丸など城の大部分は明治時代に火災などにより、ほとんど焼失してしまったそうです。 残っていた大手門と隅櫓が昭和6年に国宝に指定されましたが、仙台空襲により全て焼失してしまい江戸時代から残る建築遺構は全て失われてしまったそうです。現在は建物は残っていませんが公園として開放されていて、天守台に立つ伊達政宗公騎馬像は仙台市の代表的風景となっています。

本丸跡には「青葉城本丸会館」があり、城の全景模型や300インチの大画面で仙台城を再現するCGシアターなどが好評です。 仙台城の歴史や発掘調査結果などが見られる「仙台城見聞館」もあり、資料展示も充実しています。 仙台や政宗関連のお土産もいろいろ揃っていますので眺めているだけでも時間がすぐに経ってしまいました。 いつまでも素晴らしい展望と、凛々しい政宗の騎馬像を眺めていたい衝動にかられますが次に移動します。

所在地
宮城県仙台市青葉区天主台 青葉城址
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:地下鉄東西線「国際センター駅」より徒歩15分。JR仙台駅西口よりループル仙台で20分「仙台城跡」下車。

大崎八幡宮

また観光バスるーぷるに乗って移動するのですが、今度は仙台城跡から6つほどで「大崎八幡宮前」に着きます。 400年の時を経て伊達家の威風を今に伝える「大崎八幡宮」が、るーぷるバスに乗ってめぐる最後の場所となります。

大崎八幡宮
大崎八幡宮

厄除け・除災招福・必勝・安産の神として、今も昔も仙台市民から崇敬を集 める大崎八幡宮は、伊達政宗公の命によって、当時豊臣家に仕えていた当代一流の工匠が招聘され豪壮にして華麗なる桃山建築の御社殿として造営されたものです。

仙台藩の総鎮守として鎮座された御社殿は、現存する最古の権現造りの建築物として国宝に指定されています。 大きな朱色の鳥居や幅の広い石段、境内にそびえる杉木立が400年の歴史や当時の伊達家の威風を感じさせてくれます。 社殿は渋い黒漆塗やら彩色豊かな彫刻やら豪華な彫金具やらで施され、見るものを圧倒する荘厳華麗な国宝建造物です。

元旦や七五三など祭事には多くの市民が集まりますが、1月14日に境内で正月飾りを焼いて無病息災・家内安全を願う松焚祭(どんと祭)は約10万人もの人で賑わいます。このときに行われる裸まいりは厳冬の仙台の風物詩となっています。

るーぷるバスで回れる仙台を代表する伊達政宗の史跡巡りはこんな感じですが、まだまだ多くの史跡が仙台には残されています。 電車やバスを使って巡ることができる仙台の伊達家ゆかりの場所をいくつか紹介してみます。

所在地
宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6-1
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で10分。
電車の場合:JR仙山線「東北福祉大前駅」から徒歩15分。JR仙台駅西口より仙台市営バスで20分「大崎八幡宮前」下車、またはループル仙台で40分「大崎八幡宮前」下車。

亀岡八幡宮

まずは苔むした石段と淡いピンクのシダレザクラが印象的で緑の名所としても名高い「亀岡八幡宮」です。 仙台市青葉区にある亀岡八幡宮は伊達氏の始祖である伊達朝宗(ともむね)が福島県伊達郡に鶴岡八幡宮を勧請して建立し、その後に現在の地に遷宮されました。昭和20年の仙台空襲により社殿は焼失したため、今では石鳥居と長く急な石段のみに昔の面影が残されています。 緑が日一日と深まっていく季節に、1年の日数と同じ365段の苔むした石段を登ると、往時のたたずまいを偲ぶことができます。

所在地
宮城県仙台市青葉区川内亀岡町62
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で20分。
電車の場合:地下鉄東西線「川内駅」から徒歩15分。JR仙台駅西口より仙台市営バスで20分「川内亀岡公園前」下車 徒歩15分

仙台東照宮

同じく青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社「仙台東照宮」にも足を運んでみましょう。

仙台東照宮
仙台東照宮

仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建しました。正式名称は東照宮。 明暦元年より神輿渡御を斎行しており、2018年には御遷座365年を記念して行われました。将軍家によって創建された日光や久能山の東照宮を始め、御三家や各藩主によって全国各地に創建されたうちの一つがこの仙台東照宮です。

徳川家康公をはじめ、徳川家と伊達家には深い繋がりがあり、開運厄除・家内安全・学業成就・商売繁盛・必勝祈願などに御神徳があるとされています。

所在地
宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目6-1
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で20分。
電車の場合:JR仙山線「東照宮駅」から徒歩3分。JR仙台駅西口より仙台市営バスで15分「東照宮一丁目」下車。

青葉神社

青葉区には伊達家ゆかりの場所が多くあり、「青葉神社」もそのひとつです。

青葉神社
青葉神社

旧仙台藩士を総代とした住民たちが、藩祖伊達政宗公を祭神として明治時代に創建。県社として指定を受けたと記録されています。本殿・拝殿・神楽殿などが完成し、御霊を一本杉の伊達家から新社殿に移したといわれています。

昭和2年に現在の形となり、昭和10年には祭神政宗公300年祭が盛大に挙行されました。以来、政宗公が権中納言に任じられた日にちなんで1月9日に例祭日が行われるようになりました。昭和60年からは命日の5月25日にちなんで、5月の第3日曜日に「青葉まつり」が市民のまつりとして復活し大いに盛り上がりを見せているそうです。

なお、現在の宮司は仙台藩の家老・白石城主片倉家の16代当主とのこと。

所在地
宮城県仙台市青葉区青葉町7-1
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:JR仙山線「北仙台駅」から徒歩10分。地下鉄南北線「北仙台駅」から徒歩10分。

政宗公生母 保春院殿 御墓所

青葉神社のすぐ近くには藩祖である政宗公の生母、義姫(保春院)の墓所もありますので併せて訪れてみて下さい。

所在地
宮城県仙台市青葉区北山1丁目12-18
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。
電車の場合:JR仙山線、および地下鉄南北線「北仙台駅」から徒歩10分

伊達家の墓(大年寺山)

伊達家の墓所といえば、仙台藩祖の政宗、2代忠宗、3代綱宗のお墓が瑞鳳殿に並んでいますが、仙台市太白区茂ケ崎にも「伊達家の墓」があります。

大年寺山にある伊達家の墓
大年寺山にある伊達家の墓(出所:wikipedia

ここ大年寺山には4代目以降の藩主、4代綱村、5代吉村、10代斉宗、12代斉邦の墓があるとのことです。 また隣接地には神式の墓所もあり、伊達家歴代の方々のお墓がずらりと並んでいるさまは壮観です。 興味のある方は訪れてみて下さい。

所在地
宮城県仙台市太白区茂ケ崎1丁目
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で20分。
電車の場合:地下鉄南北線「長町一丁目駅・河原町駅」から徒歩30分。

陸奥国分寺跡

次は陸奥国分寺跡に行ってみましょう。ここは「古今和歌集」に詠まれ正式には金光明四天王護国寺といい聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで最北に位置しています。 その後、藤原秀衡によって修復が行われましたが、1189年に源頼朝の奥州侵攻の際に焼失しました。これを伊達家が薬師堂などを建てて再興しました。

陸奥国分寺の薬師堂
陸奥国分寺の薬師堂

国分寺跡は、発掘調査から金堂を中心に回廊が巡らされ、中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などがあったと判明しており、その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。 現在、寺跡には主として近世以降に再興された新しい国分寺の伽藍が建っており、その境内の一部は、国の史跡に指定されています。

敷地内には天正年間に伊達氏も神領を寄進し国分盛重が社殿を造営した白山神社があり、その本殿は二代藩主伊達忠宗によって再建され、宮城県の文化財に指定されています。 1607年には伊達政宗によって国分寺金堂跡に薬師堂が再建され、内部は、柱・欄間に色彩があり、細部にわたって精巧な彫刻が施されており華麗な桃山文化の特徴をみることができます。 受験のシーズンになると多くの受験生が祈願に訪れるそうですが、伊達家めぐりとしても重要なスポットと言えます。

所在地
宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目-8-28
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で30分
電車の場合:地下鉄東西線「薬師堂駅」から徒歩5分

北山五山

約800年前に伊達家の菩提寺として創建された青葉区の北山に並び建つ5つの寺があります。 仙台藩祖となった伊達政宗が江戸時代初期の仙台移封に伴って現在の地に移したもので、京都五山にならって「北山五山」と呼ばれるようになりました。

今では北山の寺めぐりとして情緒あふれる散策コースとしても人気です。北仙台駅を起点に北山の古い寺社の建ち並ぶ道を進み足の向くまま寺の石段をゆっくり登ってみましょう。登りきると市街の眺望が開けてきます。北山の寺には樹齢200年を越える大木も多く、古木、名木を訪ねてのウォーキングも楽しいものです。

現在、北山五山と呼ばれる5つの寺を紹介してみましょう。

  • 政宗公の仙台入城とともに現在地に移った由緒ある「輪王寺」
  • 伊達家最初の菩提寺であり宝物庫には伊達家にまつわる貴重な資料も展示されている「東昌寺」
  • 政宗の父・輝宗公の菩提寺として創建され政宗の母・保春院の墓と政宗の三男・宗清の供養塔もある「覚範寺」
  • もとは鎌倉時代に山形県に創建され伊達家とともに仙台へ移った「資福寺」
  • 伊達氏始祖である朝宗夫人の菩提寺として創建され慶長遺欧使節としてヨーロッパを訪れた支倉常長の墓や使節の案内人となったルイス・ソテロの記念碑が立つ「光明寺」

となっております。

本来は輪王寺は含まれず、満勝寺を含めて「北山五山」と呼ばれていました。ただ、現在は満勝寺が移転したため、輪王寺を含めたといいます。伊達政宗が仙台開城とともに建立した北山五山めぐりも伊達政宗を感じる歴史めぐりとして組み入れてみてはいかがでしょうか。

所在地
輪王寺:仙台市青葉区北山1丁目14-1
東昌寺:仙台市青葉区青葉町8-1
覚範寺:仙台市青葉区北山1丁目12-7
資福寺:仙台市青葉区北山1丁目13-1
光明寺:仙台市青葉区青葉町3-1
アクセス
車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分
電車の場合:JR仙山線、および地下鉄南北線「北仙台駅」から徒歩5分~15分程度

岩出山城

仙台から少し北へ行くと大崎市岩出山があります。ここにあった「岩出山城」はなかなかの山城で、仙台に移る前まで伊達政宗が城普請していました。

1590年の小田原城攻略後の豊臣秀吉奥州仕置を行いますが、検地・刀狩りなどへの不満から一揆が発生しました。 この一揆への関与を疑われた伊達政宗は秀吉により無罪とされるものの、米沢から葛西・大崎旧領に移封されることとなりました。

現在、城跡には有備館のほかに曲輪跡や土塁や堀に石垣を伴う虎口などが残されていますが公園として整備され城跡としての説明などは乏しいようです。

岩出山城跡
岩出山城跡(出所:wikipedia

北目城

仙台市太白区にある「北目城」は、1600年の関ヶ原の戦いの頃から仙台城に移るまでの伊達政宗の居城として知られております。 調査によって確認された堀跡もその頃のものと考えられています。堀跡は規模の大きな堀に小さな堀が複雑に取り付いている構造です。

政宗が岩出山城へ移った際には腹心である屋代景頼に城を譲り、関ヶ原合戦に伴う上杉領侵攻の際にはこの城を拠点に白石城攻めが行われています。現在は住宅地や商業地が多く開発が進み説明板付近に土塁と思われる高まりが確認できる以外は城跡としての遺構はほとんど見当たりません。

米沢城跡

仙台の伊達家ゆかりの史跡を紹介しましたが、ここからは伊達政宗の生い立ちから東北の覇者となるまでの生涯を紹介しつつ 仙台以外にも全国に数多く残されている政宗公の足跡をたどっていきたいと思います。

仙台のイメージが強い伊達政宗ですが、1567年8月3日に出羽(現在の山形県)の伊達氏第16代当主・伊達輝宗(てるむね)と最上義光の妹、義姫との間に嫡男として米沢城で生まれています。 戦国時代後期に伊達氏の本拠地が置かれ、政宗が生まれた事でも知られる米沢城は舞鶴城、松ヶ岬城とも呼ばれ米沢市のほぼ中心に位置しています。輝宗から政宗へと当主が変わっても本拠地として使用され、米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられています。

米沢城は伊達家の後に越後から上杉家が移ってきたので上杉家のゆかりの地としても知られています。 現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、そこには上杉謙信の座像があったり、伊達政宗誕生地の牌があったりと歴史好きにはたまらない場所でもあります。 二の丸跡には「米沢市上杉記念館」もあり、伊達家よりも上杉家の史跡として有名です。

そんな米沢城で幼名の梵天丸として幼少期を過ごした政宗は5歳のときに天然痘(てんねんとう)という伝染病にかかり、右目の視力を失ってしまいます。 病気の右目をずっと気にしていた政宗は、わずか9歳のとき家臣の片倉小十郎に「右目 をくりぬいてくれ」と頼み、小十郎は小刀で政宗の右目をくりぬいたと言われています。

片目になった我が息子を不吉に思い、醜いとさえ思うようになった母は、政宗を遠ざけて可愛がることはしなかったそうです。 それでも母を慕い続ける政宗の片想いのような感情は切ないものがあります。しかし父はその才能を期待していたようです。 片目を失ったことにより伊達政宗は現代でも隻眼や、独眼竜などと呼ばれています。

1577年11月15日、元服して政宗と名乗ります。政宗が13歳の時に仙道の戦国大名である三春城主の田村清顕の娘、愛姫(当時12歳)を正室に迎えます そして1581年4月に隣接する戦国大名、相馬氏との合戦で初陣を飾りました。また、この頃から父、輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を担当していたと言われています。 1584年10月には父、輝宗の隠居にともない家督を相続し、政宗は18歳の若さで伊達家第17代当主となります。 しばらくは父、輝宗の知識や経験を活かし助けを借りながら共に二頭政治を行う予定だったのかもしれません。

二本松城

元服したその翌年に蘆名領を攻めた政宗は大内領の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い城中の者を皆殺しにするという非情な面を見せます。 それを見た近隣諸国が和議を申し出たため父、輝宗が交渉役などを務めていましたが畠山義継に拉致され捕らえられてしまいます。 その時、鷹狩りに出かけていた政宗は急きょ戻って畠山義継を追跡し鉄砲を放って攻撃し、輝宗もろとも一人も残さずに殺害してしまいました。

この事件については、政宗による父殺しの陰謀だったのではないかとの見方もあるそうです。

輝宗の法要を済ませると、父の弔い合戦と称して二本松城を包囲します。 伊達軍7千に対し、二本松城救援のために集結した佐竹氏率いる南 奥州の諸侯による連合軍約3万と人取橋で激突します。 戦闘は連合軍の一方的な攻勢により劣勢となった伊達軍は潰走し、連合軍は伊達本陣に突入し政宗自身も鎧に矢や銃弾を受けるなど苦戦します。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して討ち死にを遂げました。

また伊達成実の軍勢500も攻撃を受けましたが踏み止まって時間を稼いだため政宗は無事に本宮城に逃れることが出来ました。 伊達軍の壊滅は目前に迫っていましたが日没を迎えたため、この日の戦闘は終結し九死に一生を得たと言われています。

ところがその夜、敵の部将が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらに本国に敵が攻め寄せるとの報が入ったため佐竹軍は撤退を決めます。 圧倒的に優勢な状況で勝ちを目前にして3万の軍勢が撤退したことは後年さまざまな憶測を呼び、政宗による裏工作があったのではとの説が生み出されています。 しかしその翌年に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、相馬義胤の口添えにより二本松城は開城し、ここに二本松氏は滅亡したのです。

二本松城
二本松城

そんな戦いの舞台となった二本松城は、福島県二本松市郭内にあり日本100名城の一つです。 別名は霞ヶ城や白旗城とも呼ばれ平成19年に国の史跡に指定されました。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選にも選定されている観光地としても有名です。 現在は山上の本丸には天守台が再建されています。また麓に復元された箕輪門近くには幕末の戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした「二本松少年隊」の群像があります。

人取橋古戦場跡

政宗が敗戦を喫した人取橋の古戦場は福島県本宮市にあり、国道4号線沿いに古戦場跡として今は碑が立っております。 伊達政宗軍7千が戦い敗走した古戦場です。伊達家や歴史が好きな方にはオススメのスポットとなっております。 政宗を逃がすために戦死した鬼庭左月斎の墓もあり、古戦場跡碑と共に静かにそっと手を合わせてみてはいかがでしょうか。

小田原城

1587年、関白であった豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名、特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対し惣無事令(私戦禁止令)を発令します。 信長が本能寺の変で倒れた後、天下人となった秀吉は未だに自分に従わない北条と伊達を牽制し攻める口実を探していたのかもしれません。

政宗は秀吉の命令を無視して領土拡大や奥州の統一のためなど合戦を辞めることなく続けます。 1589年に宿敵である蘆名義広と戦い勝利したことにより奥州でほぼ敵なし状態となり、南奥州を領する覇者となりました。

そのころ国の中央では豊臣秀吉による天下統一が進んでおり、1590年に秀吉が北条を討つべく小田原討伐が実行されます。 大群により北条を攻める秀吉率いる豊臣政権軍と難攻不落の堅城、小田原城に立てこもる北条氏との対決が始まりました。

この当時、伊達家は北条家と同盟関係にあったため豊臣秀吉と戦うべきか、天下人である秀吉について北条と戦うべきか直前まで悩んだと言われています。結局、20万という大軍を率いる秀吉に抗うことはできず、悩んだ末に秀吉に服従すると決めます。

しかし、秀吉が発した私的な戦いを禁じた惣無事令を無視して戦いを続けた上に、小田原討伐にも煮え切らない態度で大きな遅刻をした政宗は、秀吉と初めて対面するときに死をも覚悟していたと言われています。そのため甲冑の上に白い喪服を着る死装束姿で対面したというのは有名なエピソードです。

これは秀吉の派手好きや豪快な性格を見抜いた上での身を守るためのパフォーマンスであったとも言われています。 惣無事令を無視し小田原に遅刻してきた政宗を、秀吉は切腹でもさせるつもりだったかもしれませんが、死装束姿で現れた政宗を見ると大いに感心して許したそうです。

命は免れましたが秀吉による奥州仕置きにより、会津領を没収されてしまいます。 ここから豊臣政権下に入り秀吉の家臣としての伊達政宗の生き方が始まります。

石垣山一夜城から見下ろした小田原城
石垣山一夜城から見下ろした小田原城

言わずと知れた日本の名城、小田原城も伊達政宗の足跡が残るスポットとして見てみるとまた違う見方が出来るかもしれません。 小田原市のシンボルである小田原城は、関東一円を支配した戦国大名の北条氏が五代、約100年にわたって拠点としたことで有名な難攻不落の名城です。 現在は日本100名城にも選定され、本丸や二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されています。 2016年5月に天守閣が平成の大改修を終え、常設展示も全面的に一新されたことで、より魅力的に変貌してリニューアルオープンしました。

小田原城をはじめて観光する方は東口からの近道ではなく、少し遠回りになりますが正規の登城ルート「馬出門」から入城することをおすすめします。

石垣山一夜城

北条軍が篭城する難攻不落の小田原城を取り囲み、その大軍と権威を見せつけていた秀吉が北条側へ圧倒的な力を見せつける手段に出ます。小田原城を見下ろす絶好の位置にある石垣山に一夜にして城を築いて見せたのです。これが世に言う「石垣山一夜城」です。 実際には隠れて4万人もの人が約80日もかけて築城したものを、城を隠していた木々を一夜にして伐採したことで突然出現したように見せる手法だったようです。

小田原城天守からみた石垣山一夜城
小田原城天守からみた石垣山一夜城

これにたまげた小田原城中の将兵が戦意を失い降伏に至ったと言われています。 政宗が死装束を着て秀吉と謁見したのはこの石垣山一夜城だと言われていますので、政宗スポットとして白い服を着て散策してみるのも楽しいかもしれません。 秀吉は石垣山一夜城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり天皇の勅使を迎えたりしていたそうです。 今は国立公園区域及び国指定史跡に指定されており、続日本100名城にも指定されましたので訪れてみてはいかがでしょう。

政宗は秀吉の傘下に入ることで文禄の役など多くの戦に従軍することになります。 従軍時に政宗が伊達軍にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中においてちまたの噂となったそうです。 他の軍勢が通過する時は静かに見守っていた京都の住民も、伊達の軍装の見事さに歓声を上げたと言われています。 これから派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったそうです。

長谷堂城跡

そんな豊臣秀吉が死を迎えます。

政宗と徳川家康は天下人であった秀吉の私婚を禁じる遺言を破り、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させてしまいます。豊臣家恩顧の石田三成らは猛反発したようです。さらに家康は会津の上杉景勝を討伐するためと軍を発し、政宗もこれに従い戦が勃発します。家康が機内から離れている隙をついて日頃から家康に反感を抱いていた石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵します。1600年、これが世に言う「関ヶ原の戦い」のきっかけとなります。

上杉と戦っていた家康はここぞとばかりに石田三成を討つべく機内へ戻り、関ヶ原にて西軍と東軍が激突します。 その時、政宗率いる伊達軍は「長谷堂の戦い」で最上義光と共に、上杉家の軍師である愛の兜の名将、直江兼続と戦っていました。

長谷堂城は最上義光の山形城にとって最も有力な支城である防衛の要で、関ヶ原の戦いの際に発生した慶長出羽合戦では怒涛のごとく上杉勢が攻め寄せました。慶長出羽合戦で最大の激戦となりましたが関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)が勝利したことにより直江軍は撤退し伊達政宗側の勝利となりました。

長谷堂城の本丸跡
長谷堂城の本丸跡(出所:wikipedia

長谷堂城の別名は「亀ヶ崎城」と言い、亀のような形に見えた山城でもあることから「亀の甲羅の如き堅城」という意味もあるようです。今は長谷堂城史跡公園となっており登山道は途中まで舗装されており八幡神社があります。土塁のような物もあり水堀が復元されています。本丸があった場所には「長谷堂城跡」の石碑もありました。

誉田林古戦場

関ケ原の戦いの後、徳川家康の許可を得た政宗は1601年、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めます。 ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生しました。石高は62万石で加賀の前田家、薩摩の島津家に次ぐ全国第3位の石高でした。 徳川幕府からは重宝され、松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称するほどでした。ここから徳川幕府参加として仙台での政宗の生き方が始まります。

仙台城と城下町を全面的に開発することにした政宗は、のべ100万人を動員する大工事を行いました。 仙台に残る多くの史跡がこの時のもので、それらを訪れることで政宗公の想いや意気込みを感じることが出来るかもしれません。 政宗は海外にも目を向け積極的に欧州、いわゆるバテレンらと貿易を行い、慶長遣欧使節など使節団をローマに派遣したりしました。 エスパーニャ国の協力を得てガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を建造したりと日本国内には収まらない夢や野望を抱いていたようです。

そして「関ヶ原の戦い」が終わって15年ほど経った後に戦国時代最後の大合戦「大阪 冬の陣・夏の陣」が勃発します。 徳川家康の天下統一の最終仕上げであり、豊臣家が最後の意地を見せた戦いとも言えます。 1614年に豊臣家恩顧の武将らが秀吉の嫡男、秀頼を立てて家康に戦いを挑み大坂冬の陣が始まります。 結果は大阪城に立て篭った豊臣方を徳川が連日連夜、城に大砲を撃ち込むことで恐怖した淀君ら豊臣方が和議を申し出ることで終結。 和議の成立後、伊達軍は和睦の条件の一つであった外堀を埋め立てる工事の任にあたりました。

その翌年、不当な扱いをされた豊臣家がまた家康憎しと兵を挙げ大坂夏の陣が始まります。 伊達軍は道明寺の戦いで後藤基次らと戦いました。基次は伊達家の片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれています。 道明寺口に布陣する後藤隊を壊滅させ誉田村に兵を進めた伊達隊はここで真田幸村の反撃を受けて後退を余儀なくされます。 今や1、2を争う人気の戦国武将となった伊達政宗と真田幸村の2人が唯一直接対決をしたのがこの道明寺・誉田の戦いでした。 現在、大阪府羽曳野にあるその場所は誉田八幡宮となっており、その中に「誉田林古戦場」の碑があります。 伊達軍と真田軍が激突した場所ですので、ぜひ訪れたい戦国スポットでしょう。

若林城

戦国最後の合戦も終わり、江戸時代になるとすっかり平和になり天下泰平の世へと移っていきます。

伊達政宗はもっぱら領国の開発に力を入れ、運河や流域を整理し開拓するなどして現代まで続く穀倉地帯としました。 この結果、仙台藩は表高62万石に対し内高74万5千石相当の農業生産高を確保し豊かな国づくりに成功します。

政宗は徳川家康から、2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え徳川家の厚い信頼を得ていました。 寛永12年に家光が参勤交代制を発布し「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て 「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなったと言われています。

健康に気を使う政宗でしたが、晩年は体調不良を訴え始め病気がちになります。 1636年4月、参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ宿泊した郡山では何も食べられなくなり江戸に入った頃には絶食状態が続き腹が腫らんでいました。 病をおして参府した政宗に家光は伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。そんな時でさえ政宗は行水をして身を整えてから家光を迎えたそうです。 同年5月24日の午前6時頃、江戸にて死去。享年68歳でした。死因は食道癌と推定されています。

そんな政宗が晩年を過ごした城を紹介しましょう。 仙台市若林区古城にある「若林城」は伊達政宗の晩年の居城として知られておりますが、今は宮城刑務所になっています。 近年発掘がすすめられて堀や土塁、礎石跡などがはっきりしたようですが、刑務所になっているので土塁の上には高い塀があり中には入れないのが残念です。

若林城の堀跡と土塁
若林城の堀跡と土塁

政宗が朝鮮から持ち帰ったと伝えられている天然記念物の臥竜梅もあるのですが、これもやはり見ることは出来ません。 伊達政宗によって築かれ、政宗が晩年をすごした城なので、ぜひ訪れてみたい城です。

五大堂

伊達政宗めぐりの最後は日本三景のひとつでもある景勝地、「松島」を散策してみましょう。

仙台に行ったら松島に行かない選択はありません。歴史や政宗公に関係なかったとしてもぜひ行って欲しい最高の観光地だと思います。 政宗公も好んで眺めたという松島の絶景をたっぷり楽しんだら、実は伊達政宗だらけという歴史好きにはたまらない場所が多くある松島の歴史散策に移りましょう。

松島の美しい海を眺めると目に入るのが国指定重要文化財でもあり、1604年に伊達政宗が造営した「五大堂」でしょう。

五大堂
五大堂

もとは807年に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したことが起源とされており、その歴史の長さにおもわず息を飲んでしまいます。 東北地方最古の桃山建築と言われており、伊達政宗を知らない海外から来た外国の方々も感嘆の声をあげていたのが印象的でした。

みちのく伊達政宗歴史館・松島博物館

松島と五大堂を堪能したら伊達政宗の生涯を蝋人形を使って名シーンとして再現して見せる「みちのく伊達政宗歴史館」や、 伊達家ゆかりの品々や美術品などを展示している「松島博物館」に立ち寄ってみましょう。 有名な観光地にあるだけに子供連れやご家族で行っても分かりやすいライトな政宗ミュージアムとなっております。 政宗が愛したずんだ団子や抹茶を楽しみながら観光するのもいいですね。

瑞巌寺(ずいがんじ)

そして松島での目的地はやはり伊達政宗ゆかりの国宝として知られる臨済宗の仏教寺院である「瑞巌寺」でしょう。 松尾芭蕉が参詣したことでも有名です。参道を入ると厳かな静けさと御神木のような大きな木々に導かれるように奥へと歩を進めてしまいます。

瑞巌寺
瑞巌寺(出所:wikipedia

伊達政宗は国づくりに当たって「国泰く民安ずること」と考え、中国の王城洛陽の再現を意識しました。 そして自らの意図で自身の浄土往生の祈念の場である菩提寺を中世からの霊場である松島に建立し「瑞巌寺」としました。 政宗は「工事の時に棟や床に上がるときは、草鞋を履き替えよ。土足で上がってはならない」「釘や鎹(かすがい)といえども、土に落としたものを使用してはならない」と厳しく命じました。

何よりも熱い情熱を注いだことは自ら行った瑞巌寺の縄張りが中秋の名月であったこと、朝鮮から持ち帰った臥龍梅を植えたこと、松を手植えしたことなどにも現れています。 瑞巌寺造営にかける政宗の意気込みが感じられます。建設作業に目を配っていたせいか遺されたものの少なさや記録が少ないことが逆に政宗の意思を強く語りかけてくる気がします。 その意味ではこれほど権力者の意思や想いが濃密な建築物も珍しいといえます。

そして瑞巌寺本堂は聚楽第にそっくりの仙台城大広間を彷彿させる貴重なものです。 1587年、豊臣秀吉は政庁兼邸宅として京都に豪華絢爛たる「聚楽第」を築きました。 その聚楽第を模倣するように建築された仙台城の大広間は、桃山美術の粋を集めた千畳敷とも称された書院造りでした。 随所に、漆塗り、飾金具,彫刻が施されており間取りは聚楽第とよく似ていたと言われています。 そんな聚楽第そっくりの仙台城をさらに模倣したのが瑞巌寺なのです。

今は聚楽第も仙台城も現存しておりませんので見ることは出来ませんが、この瑞巌寺を見ることで在りし日の仙台城や聚楽第を見る事が出来るといっても過言ではありません。そういう視点で瑞巌寺を訪れるとまた違った見方が出来ることでしょう。 中では伊達藩の史料を常設展示していますので政宗公の想いを感じながらゆっくりと堪能してみて下さい。

まとめ

政宗は若くして自ら先陣を切り己の力のみで奥州地方を統一した血気盛んで武勇に優れた武将でした。 その一方で、茶の湯や建築などの文化的な知識も持ち、外国との交流や内政に力を入れた政治家としても一流であった名君と言えるのではないでしょうか。

杜の都と呼ばれ東北一の大都市となった仙台の原点は、伊達政宗が描いた理想の国づくりと熱い想いにあります。 政宗公が残した数々の「遺産」 に直に触れれば、その生き様をありありと感じることが出来るでしょう。 そんな伊達政宗公に「会い」 に行く旅に出てみませんか?





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