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「摺上原の戦い」政宗、蘆名を滅ぼして南奥州の覇者となる。
──天正17年(1589年)

合戦の背景

天正12年(1584年)、父・伊達輝宗から家督を継いだ政宗は、奥州や北関東へ積極的に勢力拡大を企てる。そのため地域内の有力大名や国人衆と軋轢を生み、各地で大小様々な戦が勃発した。その中でも奥州の名門大名であった蘆名氏や佐竹氏は、反伊達勢の中心勢力であり、頻繁に戦を起こした。

天正13年(1585年)に輝宗が二本松義継によって殺害されると、これを好機と考えた反伊達勢が行動を開始。佐竹義重をはじめ、岩城常隆や石川昭光、二階堂氏や蘆名氏などが連合し、政宗のいる伊達勢へ攻撃を仕掛けてきた。(人取橋の戦い
ところが、この戦いでは佐竹軍内での謀反や、蘆名氏の家督相続問題、さらに安房国から里見氏が侵攻するなど、連合軍側に不利な状況が重なって撤退。その後、天正16年(1588年)郡山合戦においても、佐竹と蘆名の連合軍が政宗に攻撃を仕掛けたものの、結果は引き分けに終わった。

天正17年(1589年)になると、伊達の同盟勢力の田村領に、相馬義胤と岩城常隆が侵攻した。政宗は田村氏の救援を名目に、片倉景綱を先鋒にして猪苗代方面へ南下し、安子ヶ島城や高玉城などの諸城を次々と攻め落とす。結局、相馬領の駒ヶ嶺城や蓑首城も落城し、相馬義胤は田村領を諦めて撤退したのだった。

政宗の主力は安子ヶ島城へ戻ると、そこで中立的立場だった猪苗代盛胤と内応し、兵力を次々と猪苗代城へ集結させた。まさに次の目標を蘆名氏の居城・黒川城に定めた。
このとき、蘆名と佐竹の連合軍は居城を出て、約2万の軍勢で田村領のある北部へ向かおうとしていた。ところが伊達軍が猪苗代盛胤と結び、猪苗代城で兵を結集してると知るやいなや、蘆名氏は黒川城に、そして佐竹氏は白河小峰城へ慌てて引き返した。その後、体勢を立て直すと、蘆名氏の大将である蘆名義広は約1万6000の軍勢を率いて磐梯山麓で布陣。対する政宗の伊達主力軍も、約2万3000の軍勢で磐梯山麓の摺上原に向かったのである。

ここからいよいよ「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)の幕開けとなる。

合戦の経過

天正17年(1589年)6月5日の午前8時ごろ、蘆名軍が猪苗代湖畔の民家に放火したのを合図に開戦。

【摺上原の戦い 周辺マップ】


伊達軍は猪苗代盛胤を先鋒にして、蘆名軍に攻撃を仕掛けた。ところが戦いの序盤は、伊達軍は強風をもろに正面から受け、舞い上がる砂ぼこりで視界も悪く、なかなか劣勢から抜け出せない状況が続く。しかしやがて風向きが変わり、今度は蘆名側が強風を受けるようになると戦況は一変。この好機を捉えた伊達軍は、まず鉄砲隊で蘆名軍の側面へ攻撃を仕掛け、蘆名軍を大いに混乱させる。さらに伊達側の武将である片倉小十郎が、見物人の農民や商人に対して意図的に発泡し、混乱をさらに煽った。これを見た蘆名軍勢は味方の敗走と勘違して、西へと逃げ始めてしまう。また、もともと傍観を決め込んでいた、蘆名側の富田氏実も撤退を開始。これに続いて二階堂氏や石川氏といった蘆名主力部隊も撤退し始めた。もはや蘆名軍は総崩れ状態となり、形勢を立て直すことは不可能になる。そしてとうとう、日橋川での悲劇を迎えることになるのであった。

敗走する蘆名軍勢は日橋川を渡り、居城である黒川城へ逃げようと、川に掛かる橋へ殺到。蘆名軍の大将である蘆名義広は川を渡れたのものの、富田氏実は自軍が渡ったのを確認すると橋を破壊してしまう。そのため逃走する残りの蘆名軍勢は退路を絶たれ、川に落ちて溺死する者や、覚悟を決めてあえて敵勢へ突撃する者が続出した。結果、蘆名勢側は日橋川で死亡した者を含め、約5000名以上の兵が討ち取られ、壊滅的な打撃を受けたのだった。なお一説によると、日橋川が落とされたのは、伊達氏側が裏で富田氏実とつながり、予め図られていた作戦とも言われている。

戦後

敗走した蘆名義広は、いったんは居城である黒川城へ逃げ込んだものの、将兵の圧倒的な不足や、逃亡する兵士も続出したことから、伊達軍を城で迎え撃つことを断念。そのまま城を捨てて、実父である佐竹義重のいる常陸国へ、さらに敗走することになった。ここにおいて、戦国大名としての蘆名家は終わりを迎える。その一方で、政宗の伊達軍は6月11日に黒川城へ堂々の入場を果たし、ここを新たな居城にした。蘆名の旧臣である富田氏実をはじめ、長沼盛秀や伊東盛恒といった武将たちは、政宗へ恭順を誓ってその傘下に入った。ただしそれでも蘆名氏の残党である、石川氏や二階堂氏といった有力な重臣をはじめ、奥会津の山内氏勝や久川城主の河原田盛次らは各地で抵抗を続けた。そのため政宗が全てを鎮圧するのには、年末まで待たねばならなかった。

翌年には奥会津の敵も平定し、最終的には南奥州を含めて30余郡を手中に収める、奥州の代表的武将に成長したのであった。しかしこの政宗の一連の行動には、大きな壁が立ちふさがる。それはおよそ2年前の天正15年(1587年)に出された、豊富秀吉の「惣無事令」に抵触していたことだ。これが後々、伊達政宗に大きな損失をもたらすことになる。つまり秀吉が小田原征伐(1590年)の後、天下統一の仕上げに北関東と奥州へ侵出すると、政宗は秀吉のもとへ恭順を誓うことになるが、その際に「惣無事令」の違反を咎められてしまう。その結果、会津一帯の旧領を秀吉に召し上げられ、領土を大きく減らすことになったのだ。ただし米沢領については情状酌量されて、なんとか無事に守ることができた次第である。





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