織田信長を二度も裏切った男「松永久秀」とは?

一茶
 2022/05/09
皆さんは「松永久秀」をご存じでしょうか。戦国武将の登場するゲームなどをやっている方なら名前くらい聞いたことがあるかもしれません。

今回は、織田信長を二度も裏切り、悪評高い武将として知られている「松永久秀」について簡単に解説していこうと思います。

松永久秀とは?


悪評高い武将として知られる「松永久秀」ですが、その出生は明らかになっていません。史料に初めて登場するのは三好家の奉行職としてです。

松永久秀は阿波国の三好長慶に仕えていましたが、足利義輝から五七桐紋と塗輿御免の使用を認められたことで三好長慶と同等の力を得ることになります。

五七桐紋とは尊氏が後醍醐天皇に賜った紋で足利氏の家紋同然とされていました。また、塗輿御免とは竹や 檜の網代を屋根や両わきに張り、黒塗りの押し縁をつけた輿のことで親王や摂家に対して使用が許された権威あるものでした。

将軍・足利義輝の暗殺


1565年、三好長慶の息子である義継と三好長逸、三好政康、岩成友通ら「三好三人衆」、松永久秀の息子である松永久通が、足利義輝を暗殺しました。

これがいわゆる「永禄の変」です。

この事件に松永久秀は直接的に関わってはいませんが、首謀者という説や黙認していたという説などがあり、松永久秀の悪評を高める要因となっています。

三好義継や三好三人衆は、義輝の弟や義輝の子を孕んでいた側室なども殺害対象としましたが、松永久秀は義輝の弟で興福寺門跡だった義昭は幽閉に留めており、イメージとは異なる処置も施しています。

大仏殿の焼き討ち


後に松永久秀と三好三人衆は政権の主導権を巡って対立することになります。

三好三人衆は松永久秀の本拠地である大和国へ攻め入りました。松永久秀はこの戦いに勝利したのですが、その際に大仏殿に火を放ったことが松永久秀の悪行の1つとされています。

当時、大仏はとても尊く重要な存在として扱われていたため、大仏殿の焼き討ちはかなり重たい罪だと捉えられているのです。

織田信長への裏切り


松永久秀は二度も織田信長を裏切った男でもあります。

一度目は1572年の「織田信長包囲網」です。足利義昭と織田信長の関係が悪くなっていた中で、武田信玄をはじめとして三好義継や三好三人衆らが挙兵しました。

松永久秀もこれらに加わりました。しかし、武田信玄が病死し義昭や善継も敗戦したことで結果的に孤立していまいます。

織田信長は松永久秀の能力を高く評価していたためこれを許しました。

二度目は1577年の「石山本願寺攻め」です。松永久秀は石山本願寺攻めの参加を織田信長から指示されたのですが、途中で離脱し信貴山城に籠城しました。

織田信長はその理由を聞くため使者を送りましたが、話をすることすら拒否したといいます。結局、織田信長の息子・信忠率いる大軍によって信貴山城が包囲されました。

この際にも織田信長は名器といわれる茶器「古天明平蜘蛛」と引き換えに和解を提案しました。しかし、二度も裏切った自分をまた許してくれるはずがないと、松永久秀は茶器を割って爆死しました。

おわりに


いかがだったでしょうか。

実は松永久秀は織田信長より年上だったため、単純に可愛がっていたというような話ではないようです。いったいなぜこれほど織田信長に気に入られていたのか気になりますが明らかになっていません。

ここまでお読みいただきありがとうございました。
  この記事を書いた人
一茶 さん

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