江戸の処刑人、山田浅右衛門

angelica
 2022/06/20
山田浅右衛門は、江戸時代の死刑執行人兼刀剣の試し斬りを務めた人で、江戸中期から8代続きました。
首切り、人斬りと言われた浅右衛門とは、どういう仕事ぶりだったのか、意外な収入源などについてもご紹介しますね。

1、浅右衛門は「試刀術」(試剣術)と言う流派


日本の剣術には色々な流派がありますが、罪人の処刑のための斬首を始め、動かないものを斬るのを「すえもの斬り」または「試し斬り」といいます。
そしてこの「すえもの斬り」「試し斬り」の流派として、江戸時代初期に、谷衛好と衛友親子が「試刀術」(試剣術)を編み出したのです。

この「試刀術」(試剣術)を受け継いたのは、谷衛友→幕府旗本の中川重良→山野加右衛門永久となり、山野が専門的な試し切りを行ったとされています。
山野は6千人もの罪人を試し斬りして、供養のために永久寺を建立、その息子久英が貞享4年(1685年)に御様御用(おためしごよう)として正式に幕臣となりました。
しかし、次の次の代が技量不足で役目を果たせずお役御免となったのです。

その後は久英の弟子たちが御様御用を務めたのですが、そのひとりが初代山田浅右衛門でした。
浅右衛門は久英の最後の弟子だったため、技と経験を息子に伝えたいと幕府に願い出て許可され、山田浅右衛門の家が代々御様御用の役目を務めるようになったとか。

2、山田浅右衛門は「浪人」だった


御様御用というのは、将軍所用の刀や装身具、諸大名からの献上品の刀剣、諸大名に下賜する刀剣類を掌る、若年寄支配下の腰物奉行のそのまた支配下で、幕府の役人でしたが、山田浅右衛門家は、代々「浪人」で幕臣ではありませんでした。

これはなぜかというと、色々な説があります。

初代浅右衛門が将軍吉宗の前で試し斬りをしたとき、幕臣になると申し出るチャンスだったのに、その機会を逸し、浪人の身分が前例になった説。

また、罪人を処刑するという穢れを追う役目なので幕臣とされなかった説。

それと、「すえもの斬り」の技術の高い水準を満たせず、山野家はお役御免となったため、世襲ではなく臨時雇いの浪人にされた説。

または、山田浅右衛門家が自由に出来た「罪人の死体」からの副収入が、幕臣になると得られないからわざと浪人のままであると言う説です。

3、山田浅右衛門家の副収入とは


江戸時代の死刑には6種類あり、そのうちの死罪(10両以上の盗みとか不義密通)は、斬首のうえ試し斬りとなっていて、遺体は遺族が引き取れず、山田浅右衛門が自由にしていいと言うことになっていました。

そういうわけで、山田浅右衛門家は、死体を試し斬りとして用いた後、肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を取り出して、労咳(結核)に効くという「山田丸」「浅右衛門丸」「人胆丸」「仁胆」などの名前で販売し、莫大な収入を得たのです。

また、刀の試し斬りも盛況で、依頼された刀の本数に罪人の数が足りず、斬った死体を何度も縫ってひとつの死体で何振もの刀で斬ったということです。

また、刀剣の鑑定なども行ったために手数料や礼金もがっぽりと儲かり、おまけに大名や豪商とのコネクションも出来て刀剣の売買に関わることもあったとか。

想像以上の儲けがあったのですね。

4、弟子を育成、処刑者も供養


山田浅右衛門家は多くの弟子を取って「試刀術」(試剣術)の後継者を育成し、実子の後継ぎにこだわることなく、腕の立つ弟子を後継ぎにしました。

また、莫大な副収入を処刑者への供養に使い、6代目浅右衛門は、池袋の祥雲寺に慰霊塔を建立。
そして罪人が最期にしたためる辞世の句を理解するために、3代目から俳諧を学んで俳号を持つように。

処刑を行った後は、精進落としのためか芸妓らを呼んで派手などんちゃん騒ぎをしたなどで、莫大な副収入もぱあっと使ったのですね。

まとめ


山田浅右衛門は「試刀術」(試剣術)という「すえもの斬り」の流派の弟子として、幕府の御様御用を務めましたが、身分は幕臣ではなく浪人でした。

この浪人から幕臣にならなかった理由はいろいろな説がありますが、莫大な副収入を得ていたのは確かです。しかしその副収入を罪人の供養に惜しみなく使い、また浅右衛門家も実施相続に固執せずに優秀な弟子に継がせたというのは特筆すべきことでしょう。

明治以後は試し斬りが禁止となり、罪人の処刑方法も絞首刑になったため、山田浅右衛門家は役目を終えたと言うことです。
  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持 ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加


関連カテゴリー・タグ