この記事はユーザー投稿です。ユーザー投稿についてはこちらをご参照ください。

【やさしい歴史用語解説 その6】「キリシタン」

明石則実
 2022/02/10
歴史用語の「キリシタン」とは、文字通りキリスト教信者のことです、漢字で「吉利支丹」または「切支丹」とも書きますよね。ちなみに漢字表記は当て字に過ぎないのですが、当初は「吉利支丹」で、禁教後になると「切支丹」の字が当てられたそうです。

しかし最初から日本にキリシタンがいたわけではありません。キリスト教を伝える人がいるから日本へ伝わったのです。最初に来日したのは、皆さんご存じの宣教師フランシスコ・ザビエルでした。
フランシスコ・ザビエル肖像(wikipediaより)

ザビエルは当初、インドで布教活動していたようですが、ある日本人と出会います。それがアンジローという人物でした。日本の話を聞くにつれ興味を持ったザビエルは、日本での布教を決意。天文18年(1549年)に鹿児島へ渡って活動を始めました。

鹿児島で100人ほどの信者を獲得しましたが、これが日本初のキリシタンとなります。次いでザビエルは日本の首都である京都へ向かいました。やはり田舎よりも都会のほうがより信者を増やせると考えたからです。
しかしザビエルの期待は裏切られました。京都は戦乱で荒れ果てており、布教どころではありませんでした。

そこでザビエル一行が向かったのは「西の京」こと山口です。西国一の戦国大名・大内義隆のもとで布教活動に取り組み、わずかな期間で500人もの信者を獲得したといいます。

その後、宣教師の相次ぐ来日によって日本は布教ラッシュとなりました。ルイス・フロイス、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを始め多くの宣教師が熱心に布教をおこない、キリシタンの数は爆発的に増えていきます。また武士層の信者も増大し、各地にキリシタン大名が生まれました。

ちなみに慶長19年(1614年)の時点で、日本人のキリシタン数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られています。当時の人口が1200万人ほどですから、全人口の実に2~4%がキリシタンということになるでしょう。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(wikipediaより)

ところが豊臣秀吉の時代からキリスト教に対して迫害が加えられ、宣教師の入国はもちろん布教すら難しくなっていきます。さらに江戸時代に入ると禁教令が出され、キリスト教は邪宗としての扱いを受けました。

こうした厳しい禁教政策は、多くの悲劇を生んでいます。元和8年(1622年)には長崎で、宣教師やキリシタンら55人が処刑された「元和の大殉教」が起こっていますし、江戸や平戸、東北などでも多くのキリシタンが命を落としています。
元和大殉教図(wikipediaより)

また寛永14年(1637年)には最大規模の農民一揆である「島原の乱」が発生。多くのキリシタンがこれに参加しています。島原の乱の場合は、藩の抑圧政策に対する暴動という見方もありますが、キリスト教が結束のシンボルとなっている以上、宗教戦争だったとする研究者もいるそうです。
「島原の乱」で一揆軍が籠城した原城址(wikipediaより)

こうして根絶やしにされたかに思えた切支丹ですが、九州の一部地域で連綿と信仰を続けていました。明治時代に禁教政策が緩和されたことで、多くのキリシタンたちが陽の目を見たわけですね。

ちなみにキリスト教信仰に関わる教会・城郭・集落などが「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と指定され、世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいところです。
  この記事を書いた人
明石則実 さん
戦国好き・お城好きの歴史ライターです。愛犬と城郭や史跡を巡ることが大好きで、 ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加


関連カテゴリー・タグ