【やさしい歴史用語解説 その9】「石垣」

明石則実
 2022/02/24
日本のお城といえば、「石垣」は切っても切り離せません。ごく普通の人からすれば、石垣があるからこそ城であり、もし石垣がないのなら、それはただの山だったり、丘だったり、土の高まりに過ぎないことでしょう。

そう、石垣こそ日本のお城のシンボルでもあるわけです。

石垣自体は古代から存在していました。7世紀後半に百済から伝わったもので、平らな石を垂直に積み上げたのが始まりだとされています。また13世紀末に起こった元寇の際、元軍に備えて石造の堤防が築かれたことでも知られていますね。

しかし城郭に石垣が築かれるのはずっと時代が下ってからです。山城の場合、盛り土が崩れるのを防ぐために土留めの石を積み上げていましたが、あれは「石積み」といってまったくの別物。本格的な石垣の登場は、織田信長が築城した小牧山城が最初だとされています。

やがて岐阜城や多聞山城、坂本城といった総石垣造りの城が登場しました。天守とともに城の威容を誇るシンボルとして石垣は存在感を高めたのです。

当時の石垣は「野面積み」といって自然石をうまく重ねたもの。近江の穴太衆を初めとする石工集団が活躍した時代でした。信長や秀吉が生きていた織豊時代に代表される工法です。安土城や豊臣期大坂城なども野面積みで造られた石垣ですね。
※丹波・須知城の野面積み

しかし一世を風靡した野面積みにもデメリットはありました。それは石をほとんど加工せず積んでいるため、高く築けないのです。実際に安土城の石垣にしても、近世城郭に比べれば高さがないことに気付くでしょう。

そこで編み出された工法が「打込接(うちこみはぎ)」というもの。これは石を打ち欠くなどして加工し、石の隙間を減らす積み方です。加工に手間が掛かるものの、野面積みより高く急な石垣を造ることができました。
安土城の一部に用いられていますし、姫路城や熊本城の石垣も打込接となっています。
※美濃・小里城の打込接

やがて全国で築城ラッシュの時代を迎えます。豊臣氏の存在を危惧した徳川家康が次々に新しい城の築城を命じたからです。この時期に伊賀上野城・篠山城・膳所城といった城郭が出現しますが、その石垣を見てみると石同士がピッタリ合うような接合面となっています。

これを「切込接(きりこみはぎ)」と呼び、ほとんど隙間がないほどの技術へと発展しました。また高さがそろった石材を使い、横の目地を通す「布積み」や、強度を出すために六角形の石を積んだ「亀甲積み」といった技法出現しています。この頃が石垣技術の頂点だったと言えるでしょう。

切込接を使った城には、江戸城・名古屋城・仙台城・金沢城などがありますが、特に金沢城の石垣は「藩主の威厳と財力」を示すかのような芸術品となっています。「石垣の博物館」と呼ばれるのも納得がいきますね。
江戸城の切込接(wikipediaより)

しかし平和な世になると城じたいが作られなくなったため、石垣を積んできた職人たちの仕事がなくなったそうです。しかし彼らは城郭・神社仏閣の修繕や、墓石の加工といった生きていく道を模索し、今日までその技術を伝えているのです。
  この記事を書いた人
明石則実 さん
戦国好き・お城好きの歴史ライターです。愛犬と城郭や史跡を巡ることが大好きで、 ...

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