江戸城の西の守りといわれた「甲府城」 今は駅や公園となっている城址を歩く

KOBAYASHI Sayaka
 2022/02/17
JR甲府駅は中央本線の駅であり、JR身延線の起点でもある。山梨県の玄関口ともいえる甲府駅だが、この甲府駅の駅舎は、武田氏滅亡後に豊臣秀吉の命で築城された甲府城の跡に建っている。

現在、甲府駅近くの舞鶴城公園や歴史公園では、復元された稲荷櫓や山手御門に江戸期の甲府城の様子を見ることができる。復元されているのは一部だが、実際の甲府城は現在の駅の北口から南口の山梨県庁までをすべて含むほどの大きな城であったといわれ、城内には温泉が湧出していたという記録もある。

江戸時代には、徳川幕府の直轄地となった甲府。六代将軍となった徳川家宣(綱豊)は甲府徳川家の出だ。父は甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)。三代将軍家光の子である綱重は、実際には甲府ではなく江戸屋敷や甲府浜屋敷(現在の浜離宮恩賜庭園)で暮らしていたといわれる。

そして、将軍後継に伴い家宣が五代将軍綱吉の養子になり、家臣団も幕臣へと編制されたことから、甲府徳川家は絶家となった。

甲府城は五代将軍綱吉の側用人であり、先祖が武田家家臣の流れを汲む北杜市武川町の武川衆である柳沢吉保が城主となったこともある。綱吉による異例の計らいだったが、その子吉里とともに柳沢家が甲府藩主であった約20年の間には、甲府城の大改修を行い、城下町の再整備にも力を入れたことから、甲府の町が発展したという。

しかし、1727(享保12)年に城下から起こった大火事によって、柳沢期に作られた藩主の居館である屋形御殿や本丸の銅門は失われ、元に戻ることはなかったという。

柳沢吉里が大和郡山に転封になったのち、再び徳川の直轄領となった甲府城は、甲府勤番の役人によって警備が行われ、この甲府勤番制は幕末まで続いた。

甲府市内の道には、現在も戦国時代から続く城下町特有の痕跡を見ることができる。甲府市の城東通りはかつての甲州街道でもあり、曲尺のように鉤の手状に曲がっている箇所が複数ある。これは、甲府城防衛のためにクランク状に街道が曲げられたとされ、「金手(かねんて)」の地名の由来にもなっている。

江戸時代、甲府城の南東の町人が住んでいたエリアは、道を挟んで両側が同じ町となる両側町になっていた。甲府の街では、通りの名称や水路の跡に当時の町割の様子を見ることができる。

江戸期には江戸城の西の守りであった甲府城。幕末には、板垣退助が武田家家臣の末裔であることを示し、乾から板垣へと改姓することで人々の心を掴み、天領であった甲府城を無血開城させたというエピソードも残っている。
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