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「布部山の戦い」月山富田をめざす尼子再興軍が挙兵、毛利と対決!
──永禄13年(1570年)

室町期の名門・尼子氏が毛利氏に取って代わられた経緯は、戦国の下克上そのものだった。安芸国の一介の国衆に過ぎず、尼子氏に服属していた時期もあった毛利が勢力を伸長するのと反比例するように、尼子氏は衰退し、最期は毛利に滅ぼされた。だが、尼子家は名門ゆえに、一度滅んだ後も遺臣の山中鹿之助らを中心に再興軍が立ちあがるのだ。

合戦の背景

布部山の戦いは、たびたび衝突した毛利と尼子再興軍の初対決のバトルである。尼子氏といえば、永禄9年(1566年)第二次月山富田城の戦いで毛利氏に敗れており、戦国大名としての尼子氏はこのときに滅んでいる。このとき当主の尼子義久とその弟らは元就に助命されるも、安芸円明寺に幽閉され、抵抗していた尼子家臣らも毛利氏に下る者や逃亡する者が相次ぐ始末だった。

宿敵の尼子をたおした毛利氏だが、その後は和談していた九州の大友氏との戦いが再燃する。永禄12年(1569年)には、吉川元春小早川隆景ら毛利両川の4万余の大軍が再び九州の地に入ると、尼子氏の旧領地である出雲国は毛利の支配力が手薄になった。

尼子再興軍の挙兵

一方、尼子旧臣の山中鹿之介は、尼子再興運動を行なって雌伏の時を過ごしていたが、この毛利氏の九州出兵の隙をついて、ついに動き出した。彼は京都にいた尼子勝久を盟主に仰ぎ、尼子再興軍を編成して出雲国への侵攻を開始したのである。

但馬国から船で島根半島に上陸した山中鹿之介たちは、すぐ元家臣たちに檄文を送り、反毛利の旗揚げを促した。勝久の存在が功を奏して尼子再興軍は瞬く間に勢力を増し、3千以上の兵が集結したと伝わる。彼らは現在国宝の松江城がある地に末次城を築き、そこを拠点として毛利との戦いに入った。

背後を突かれる形になった毛利方は、九州での戦況が芳しくないこともあって苦境に陥った。しばらく九州と出雲の二方面作戦を余儀なくされた末に、当主の毛利元就は九州撤退を決意。同年末までに本拠・安芸国に戻ると、翌年から本格的に尼子再興軍との戦いに全力を注ぐことになった。

合戦の経緯

永禄13年(1570年)1月、毛利方は一大軍勢を出雲に差し向ける。総大将は元就の孫・毛利輝元であり、軍勢は2万6千と言われ、輝元にとって叔父にあたる吉川元春と小早川隆景も加わった毛利家の総力といってもいい大軍勢であった。

対する山中鹿之介ら尼子再興軍は、このとき月山富田城を包囲しており、尼子氏の本拠地を奪回しようと目論んでいた。戦闘は尼子再興軍が優勢で、兵糧が欠乏していた月山富田城は落城寸前まで追い詰められていた。もし城が落ちれば尼子方が更に勢い付き、今はまだ毛利に従っている尼子旧臣たちが雪崩を打って反旗を翻す可能性があった。毛利方にとっても月山富田城は、是が非でも守らなければならない戦略拠点だったのである。

毛利軍は水軍の将である児玉就久らに海から出雲に入らせ、鹿之助たちを牽制すると毛利輝元率いる本体は隣国石見の山南の地で部隊を整え、出雲に入ってからは赤穴、中郡、三沢、横田と進んで月山富田城を目指した。毛利の進軍に対処したかった尼子再興軍だったが、各地の小規模な戦いに時間を取られ、毛利軍が到着する前に城を落とすことは難しくなった。
山中鹿之介たちは軍議の結果、大将の尼子勝久を末次城に残し、月山富田城の南にある峠道が集まる要衝の地、布部山(ふべやま)で毛利軍を迎え撃つことにしたのである。布部山は周囲が険しい山に囲まれた狭隘の土地で、兵数で劣る尼子再興軍にとって勝機を見いだせる場所だった。

【布部山の戦い 周辺マップ】


同年2月14日の朝、両軍は布部山で激突。戦場は主に水谷口、中山口の山道二か所で、特に水谷口では山中鹿之介と元就の二男・三男である吉川元春、小早川隆景の軍が直接ぶつかり合い、毛利方の重臣熊谷信直の嫡子細迫左京亮が討ち死にするなど、激戦が繰り広げられた。

開戦当初は山頂側の尼子再興軍が地の利を活かし、上から鉄砲と矢を浴びせかけて毛利方を圧倒していた。しかし、歴戦の吉川元春が別働隊を組織し、地元民から聞き出した間道を伝って山頂の尼子本隊に奇襲を加えると、形勢は一変する。背後に敵がいては、狭い山道でも到底勝ち目はない。少数の尼子方は浮足立ち、そこに多勢を活かした毛利の力攻めを受け、尼子再興軍は壊滅した。山中鹿之介はしんがりを務め、なんとか末次城へ逃げ延びたものの、多くの将兵を失った尼子方の勢いは大きく削がれることになった。

戦後

布部山の戦いで勝利を得た毛利方は、月山富田城を守り抜くことに成功した。敗れた尼子方は末次城に拠ったものの、毛利軍の追撃を受けて末次城も放棄せざるを得なくなり、両者のパワーバランスは大きく毛利家に傾いた。その後も出雲を中心に尼子再興軍は抵抗運動を続けていくが、優勢になることはほとんどなく、翌年には尼子勝久と山中鹿之介は隠岐へ逃れ、尼子勢力は出雲から一掃されている。

鹿之助はこののちも尼子家再興のために命を懸け、伝説の人物となっていくが、布部山の戦いの最中に毛利方の遠藤五郎三郎元貞と一騎打ちに及んだと伝わっている。元貞が打ち込んだ槍をひらりとかわし、逆に元貞の馬の目を突いて落馬させ、「これからも武運を全うせよ」と首を取らずに見逃したという逸話が残っている。





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