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「吉川広家」吉川氏の後継者。関ヶ原で毛利家のために奔走!

吉川広家の肖像画
吉川元春の息子・吉川広家は、当主の毛利輝元を支えながら、関ヶ原の戦いに際して重臣の毛利秀元らと対立するなど、大国毛利を率いて難しい舵取りを迫られた。その生涯を、輝元と秀元との関係を交えつつ見ていこう。

第二世代の輝元・広家・秀元

毛利元就には、優秀な三人の息子がいた。嫡男の隆元と二男の吉川元春、三男の小早川隆景である。三本の矢のエピソードで知られる三人の結束は、草創期の毛利家を大いに盛り立てた。彼ら三人の第二世代に当たるのが、毛利輝元と吉川広家、毛利秀元の三人だ。

輝元は早逝した父隆元に代わって元就の後継者となり、叔父の元春と隆景に支えられながら戦国時代終盤の戦いを乗り越えていった人物である。元春と隆景が世を去った後、その輝元を支える役割を担ったのが広家と秀元で、広家は吉川元春の後継者、秀元は元就の4男の子供である。

第一世代の三人が結束を常にしたのと異なり、輝元と広家、秀元の三人は、それぞれの思惑をぶつけ合いながら毛利家を動かしていった。特に天下分け目の関ヶ原の戦いに際しては、広家の下した判断が日本の歴史を動かす一因となっている。第一世代から大国毛利の舵取りを引き継いだ広家たちの戦いは、どのようなものだったのだろうか。

吉川家当主としての活躍

吉川広家は、有名な桶狭間の戦いのあった翌年、永禄4年(1561年)に吉川元春の子として生まれている。毛利家の分家である吉川家を継いだのは天正15年(1587年)で、26歳のときであった。若くして大国毛利の重臣たる責務を担ったのである。豊臣秀吉政権のもとで秀吉の養女を妻に迎えるなど、本家と肩を並べるほどの厚遇を受け、毛利家の一員としてはもちろん、独立した大名としても領地を受けるなど、勢力を増していった。文禄・慶長の役では毛利本隊と共に渡海し、別働隊を率いて激戦を重ねている。

慶長2年(1597年)に叔父小早川隆景が亡くなると、続いて秀吉も翌慶長3年(1598年)にこの世を去る。毛利家を支えた第一世代が全員いなくなり、広家を厚遇した秀吉も死去すると、毛利家の行く末に暗雲が垂れ込めていった。当主である毛利輝元を、いとこの広家と叔父の毛利秀元が支える体制が模索されたが、三人の所領問題がまとまらず、かつて第一世代が誇った結束を保てないまま、関ヶ原の戦いを迎えていく。

密約を守った関ヶ原

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは「石田光成が率いる西軍」とよく表現されるが、実際の西軍の総大将は毛利輝元である。吉川広家は開戦前から徳川家康の東軍に付くべきと主張し、輝元・秀元のふたりと対立していた。特に石田光成方に付くよう強硬に主張した毛利家の使僧・安国寺恵瓊とは、以前から不仲だったこともあり、帰趨を決める会議で激論を戦わせたと伝わっている。

結局西軍に付くことになった毛利家の将来を憂い、広家は秘密裏に東軍の黒田長政と連絡を取り合っていた。西軍に付いたのは形だけのこと、戦場では一切兵を動かさない。そんな西軍への裏切りと言える密約を、輝元と秀元に知らせずに黒田長政を通して家康と交わしていたのである。
関ヶ原で戦が始まると、広家は毛利本隊の前に陣取り、密約を守って一切動かなかった。安国寺恵瓊らが使者をよこしても無視し続け、遂には弁当を口実に出撃しなかったことから「宰相殿の空弁当」なる言葉が生まれたほど、広家は態度を徹底したのである。

広家、毛利家の結束を見せる

吉川広家が密約を守ったことで、関ヶ原は東軍の勝利に決した。広家の決断が歴史を動かしたと言える訳だが、こののち毛利家を苦難が襲う。密約では毛利家の領地は安堵されるはずだった。しかし大勝を得た家康はその約束を反故にし、毛利家の領地を大幅に削減する決定を下したのである。広家はもちろん、輝元も秀元も慌てふためいた。

この時の三人の思いは推し量るしかないが、西軍に付いた失策を責めたい広家、かたや密約を反故にされた甘さを責めたい輝元と秀元の関係は複雑だったろう。だがここで広家は、父吉川元春と同じく一族の結束を重んじる決断を下す。家康が恩賞として自分に与えた周防・長門の領地を、本家の輝元に与えてくれるよう家康に懇願したのである。願いは聞き届けられ、大幅な領地削減を受けたものの、毛利家は長州藩として続いていくことになった。広家は領内の岩国に所領を与えられる。毛利家執政の立場は退き、輝元の補佐は秀元が担うことになった。

毛利家に必要不可欠な存在

その後の吉川広家は、有力一門の地位は保ちつつ、毛利家の政治運営からは一歩退いた立場を取った。しかし、輝元の後継者となった毛利秀就は広家を頼りにし、最終的には独裁が嫌われて失脚した毛利秀元に代わり、広家の息子広正が執政に復帰することになる。 若き頃の広家は、出世欲を強く押し出したエピソードが伝わっているなど、直情的な傾向が見られる人物だったようだ。 しかし数々の戦場の経験を積んだのちは、毛利家存亡の危機に的確な状況判断と主筋への忠節を見せている。 結果的に広家の血筋が毛利家を支え続けていったことからも、その存在は毛利家にとって必要不可欠だったと言えるだろう。

岩国の領主として治政に勤しんだ広家は、現在の岩国市の基礎を作り上げ、寛永2年(1625年)65歳でその生涯を終えた。時に対立しながらも終生仕え続けた輝元の死の、わずか二か月後のことであった。

毛利家の舵取りと存続に尽力した広家

吉川広家は、若くして吉川家を継ぐと当主の毛利輝元を補佐し、大国毛利の舵取りを担った。天下分け目の関ヶ原に際して、主君と意見を異にしても冷静な判断を貫き、毛利家の存続に成功している。その後は第一線は離れたが、その子が執政に復帰するなど、毛利家の歴史に欠かせない人物であった。





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