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【超入門】5分でわかる毛利元就

毛利元就イラスト
一介の国衆から中国地方の覇者にまで登り詰めた毛利元就。その戦国最高とも言える知将の生涯は合戦とともにあった。

誕生~家督継承

元就は明応6年(1497年)、毛利家当主・毛利弘元の次男として安芸吉田の郡山城に生まれた。幼名は松寿丸。母は福原広俊の娘である。

毛利家は南北朝時代より安芸国吉田庄(広島県高田郡吉田町)に定住し、国衆として成長。弘元の代に至ったころには、安芸国の有力国衆の中で既に頭角をあらわしていた。しかし、当時の安芸国は北九州と中国地方に絶大な勢力を誇る守護大名・大内氏の勢力下にあり、毛利家もショセンは一国衆にすぎなかった…。

父弘元の苦悩

一方、中央では「明応の政変」によって将軍足利義材が追放されて以来、管領の細川政元が幕政を牛耳っていた。

時の将軍12代足利義澄は、政元の傀儡でしかなく、足利義材(のちの義稙)は京都の奪還を虎視眈々と狙っていた。 明応7年(1498年)以降、義材が大内氏の元に身を寄せると、応仁の乱以来鎮まっていた「大内氏 vs 細川氏」の対立が再燃。元就の父弘元はその狭間で悶々と苦しむことに。

明応9年(1500年)、弘元は大内氏と細川氏の圧力から逃れるべく、わずか8歳の嫡男・幸千代丸(のちの毛利興元)に家督を譲り、二男の元就をつれて猿掛城に逃げ込む。幼少の元就はその後、次々と不幸にみまわれることとなる。

両親と死別し、養母に支えられる。

元就は、文亀元年(1501年)に母を亡くし、永正3年(1506年)には父・弘元も酒毒で亡くすこととなる。弘元は、「大内氏、細川氏のいずれに従ったものか」と散々悩んだ挙げ句、酒に溺れて、死に至ったらしい…。

これにより、元就はわずか10歳にして孤児となる。さらには、毛利家臣・井上元盛に所領を横取りされて、城からも追い出されてしまう。まさに踏んだり蹴ったりである。

かわいそうな元就を支えたのが父弘元の継室・杉大方だった。

彼女は再婚もせずに元就を養育した。元就は、永正8年(1511年)に15歳で元服し、"多治比(丹比)元就" を名乗って分家を立てる。20歳になった永正13年(1516年)には兄・興元をも酒毒で亡くす。このとき興元の嫡男幸松丸がまだ幼かったことから、叔父の元就が後見役をつとめることとなった。

初陣と家督相続争い

元就の初陣は永正14年(1517年)有田中井手の戦いとされる。このとき安芸武田氏を撃退し、家中での名声を高めた。そして6年経った大永3年(1523年)には転機が訪れる。


元就は同年、大内氏の安芸鏡山城を陥落させているから、この時点で大内氏から出雲国の尼子氏に転じていたようだ。この合戦後まもなく、幼君・幸松丸がわずか9歳で亡くなり、毛利家中において後継者争いが勃発することに…。

元就にとって家督を継ぐチャンスだったが、彼が自ら行動を起こすことはなかったようだ。だが結局は、臣らの推挙により家督後継者に担ぎ出されている。重臣たちの期待の星だったのか、このとき毛利一門・譜代重臣15名の連署書状が作成されている。

しかし、その後の家督継承はスンナリとはいかなかった。これを不満とした一門衆、坂広秀・渡辺勝らが元就の異母弟である相合元綱を擁立し、元就暗殺計画を企てたからだ。さらには尼子氏もこの対抗勢力に肩入れして、毛利家のお家騒動に介入していたらしい。
だが、元就はこれに先手を打って元綱を倒し、晴れて毛利家のトップの座を射止めることになる。

大内氏傘下で勢力拡大

元就は家督継承を機に尼子氏から離反。大永5年(1525年)には再び大内氏傘下であることを明確にする。以後、大内氏の権勢を背景に、勢力拡大へと向かう。

高橋氏を討伐

享禄2年(1529年)、勢力拡大の第一歩として高橋氏一族を討伐。

高橋氏は兄・興元の正室の実家で、元々は友好関係にあった。その所領は安芸国と石見国にまたがり、備後国や出雲国にも入り込んでいた。つまり大内氏傘下の国衆連合の中でも「盟主」の地位にある大きな国衆だった。しかし、先の家督争いの際には相合元綱に与していたのだ。

これを許さなかった元就は、高橋氏を滅ぼし、安芸から石見にかけての広大な領土を得る。ここでイッキに大内氏傘下の国衆連合のトップの座に躍り出たのだ。

尼子攻めを再開

元就が再び大内氏に従属して以降、尼子・大内両氏は和睦していた。尼子氏ではお家騒動があり、一方の大内氏も北九州で大友氏や少弐氏と争っていた。つまり、「お互いに無用な争いは避けましょう」と、双方が勢力維持できる道を選んだということである。

この間、毛利氏と大内氏の関係は強化されていく。

まず天文2年(1533年)、元就は大内義隆の推挙で従五位下・右馬頭に任じられる。そして天文6年(1537年)には元就嫡男の少輔太郎(=毛利隆元)を人質として大内氏に差し出す。このとき大内義隆から一字を拝領して"隆元"と名乗らせている。

同年、尼子氏では血気盛んな尼子詮久(のちの尼子晴久)が家督を継承していた。やがて大内氏と大友氏が和解すると、尼子氏と大内氏の和睦が破たんして、晴久もついに元就討伐を決意。天文9年(1540年)、3万もの尼子の大軍が、元就の居城である吉田郡山城に攻め込んできた。(吉田郡山城の戦い

当初、元就は尼子方の圧倒的な兵力を前に籠城戦で挑むしかなかった。しかし、大内義隆の重臣・陶隆房(のちの陶晴賢)率いる1万もの援軍を得ると形勢は逆転!翌年には尼子軍を撤退させることに成功したのである。

戦後、元就の威勢は鳴り響き、さらに尼子経久が死去したことも手伝って、尼子方の国人衆らは相次いで大内氏、および毛利氏に転じた。また同じ頃、安芸武田氏が滅亡。元就は安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いていく…

大内氏、尼子に大敗して弱体化の道へ…

一方、大内義隆は経久の死を好機ととらえた。陶隆房らの勧めもあって、天文11年(1542年)、 尼子の本拠・出雲国への遠征に打って出た。これが、大内軍の大敗を招く第一次月山富田城の戦いである。

この遠征で大内軍は「ちからワザ」でねじ伏せにいったが、守りが堅い富田月山城を攻略できなかった。兵糧の欠乏や大内氏に転じたばかりの吉川興経ら安芸国人衆の寝返りなどもあり、撤退を余儀なくされた。
このときの撤退では、外様の家臣だった元就は殿を命ぜられ、尼子軍の追撃の中を命からがら逃げ帰ることに…

この大敗の影響で、以下のように大内氏の勢力は後退していく。

  • 大内義隆は合戦を忌み嫌い、文化に傾倒するようになる。
  • 大内家中で武断派だった陶隆房の権勢が弱まり、文治派が台頭する。
  • 義隆と陶隆房の間に軋轢が生じるようになる。
  • 大内氏の弱体化により、安芸・備後での尼子氏の勢力が復活する。

元就の婚姻戦略

一方で、元就は勢力拡大のため、次々と養子・婚姻政策を推し進めた。この動きこそ、合戦だけでなく、計略性にも富んだ元就の真骨頂である。

  • 天文10年(1541年)、竹原小早川家の当主・小早川興景が病死する。
  • 天文13年(1544年)、竹原小早川氏の養子として三男・徳寿丸(小早川隆景)を送りこむ。
  • 天文16年(1547年)、吉川氏の養子として次男・元春(吉川元春)を送りこむ。
  • 天文19年(1550年)、小早川隆景が沼田小早川家の家督も継承。元就は同年、吉川興経とその子・千法師を粛清し、吉川氏を完全掌握する。

まずは小早川氏に対する政策をみてみよう。

毛利氏と竹原小早川氏は、元就の兄・興元の娘が竹原小早川家に嫁いで以来、婚姻関係にあった。
徳寿丸が家督を継いだ背景には、病死した13代当主・小早川興景に男児がおらず、竹原小早川家から要請があったことがある。また、大内義隆の勧めがあったことも影響したらしい。

隆景は6年後に小早川の宗家にあたる沼田小早川家の家督継承にも成功する。沼田小早川家当主・小早川繁平は若年で病弱な上、盲目だったことから、元就と大内義隆が共謀して隆景に家督を継がせたのだ。このとき、反対した沼田小早川家の宿老たちを粛清している。

次に吉川氏に対する政策を見てみよう。

毛利氏と吉川氏は、元就の正妻・妙玖が吉川国経の娘だったことから元々は血縁関係にあった。ただ、吉川氏の本領は出雲の尼子氏と接しており、尼子との繋がりも強かった。実際、当主・吉川興経は第一次月山富田城の戦いで元就ら大内方を裏切って尼子に転じていた。

興経は武勇に長けた将だった。そこで元就は
「興経は手ゴワイ。なんとしても武力衝突は避けねばならない」 と養子戦略であったを練った。

元就は次男・元春を養子とする代わりに、興経の命の保証を約束した。また、興経の嫡子・千法師を元春の養子にして、ゆくゆくは家督を継がせるという約束も取り交わした。しかしのちに元就は、無情にも興経、千法師ともども暗殺し、吉川家を乗っ取ることになるのだが…。このあたりには元就の冷徹さも垣間見える。

こうして、元就は安芸の名族として知られた小早川・吉川の両氏を一族に組み入れた。いわゆる "毛利両川" と呼ばれる体制を築いたのである。

四カ国支配の大名へ

陶晴賢が台頭。元就はどうする?

天文20年(1551年)、大内氏では、文治派の台頭によって排除されていた陶隆房がついにクーデターを敢行。長門大寧寺で大内義隆を自害に追い込んだ。(大寧寺の変

隆房は翌年、義隆の養子だった大友晴英(大友宗麟の異母弟、のちの大内義長)を擁立。隆房は "晴賢" と改名して大内氏の実権を掌握した。

元就はこのクーデターに関してウラで同意していたとされている。事実、このクーデターの後、元就は陶晴賢に従属することになる。しかし、嫡男の隆元は、
「陶晴賢はいずれ毛利にも攻めてくるはず。油断ならない!」と主張し、陶氏打倒を唱えていた。のちに元就もこの主張を受け入れ、陶晴賢と決別することになる。

こうした中で天文23年(1554年)、石見の吉見正頼が晴賢に叛旗を翻し、三本松城の戦いが勃発。吉見氏は同じ大内家臣でありながら、陶氏とは応仁の乱以来の仇敵でもあった。

このとき、元就は吉見氏と晴賢の双方から出陣要請をうけていた。元就は「どちらにつくのが得策か…」としばらく様子を見ていたが、ついに晴賢との決別を選択。兵を挙げて、安芸から晴賢勢力を一掃した(防芸引分)

これに対して晴賢はすぐさま元就討伐の軍を派遣。安芸国の折敷畑山で両軍は激突したが、元就が勝利している。(折敷畑の戦い

弘治元年(1555年)厳島の戦いでは、毛利軍が兵力差で圧倒的に不利だったが、元就の類まれな計略により陶晴賢を滅ぼした。この後まもなく、晴賢に父を謀殺されていた大内家臣・杉重輔が陶氏の居城・富田若山城を襲撃し、晴賢の遺児・陶長房を討っている。

陶氏に続き、大内氏も討つ!

大内氏は晴賢の死だけでなく、家中では私闘や離反も重なって、弱体化に拍車がかかっていた。元就はこれに乗じて周防と長門の制圧に乗り出すが、いざ侵攻をはじめると毛利勢に抵抗する一揆が頻発。というのも、防長の両国はこれまで大内氏が長く統治してきたため、新興勢力である元就の侵略に反感を強めていたのだ。

弘治2年(1556年)には一揆の勢いも一段落し、鎮圧される。元就はその後、尼子氏を牽制するため、二男・吉川元春を石見国に出兵させ、石見銀山を奪取することにも成功している。

一方、同年の防長への侵攻では、毛利勢の前に都濃郡須々万の沼城が大きく立ちはだかった。この城は、三方が深い沼池に固まれた城塞だった上に、大内氏の援軍や一揆軍も加わって籠城したため、陥落までに1年以上を要した。

翌年、激戦の末にようやく沼城を陥落させると、その後まもなく大内義長は自害、大内氏は滅亡した。(防長経略

これにより、元就は安芸・備後に加え、周防・長門を支配し、4か国を有するまでになった。

石見銀山の争奪戦

前に述べたとおり、元就は石見経略にあたって、周防制圧と並行して二男・元春を出兵させ、大内氏の支配下にあった石見銀山を奪取した。しかし、永禄元年(1558年)には尼子晴久に石見銀山の山吹城を落とされ、石見銀山を奪われてしまう(忍原崩れ)。これをきっかけに毛利氏と尼子氏による石見銀山争奪戦は激化する。

こうした中、翌永禄2年(1559年)になると、将軍権威の再建を目指した13代将軍・足利義輝が全国の和平調停に動き出した。中央では三好長慶が幕府と京都の実権を握っており、これに将軍義輝と細川晴元が敵対してきたが、ここにきて義輝は三好氏と和睦して協調関係を築いていたのである。

毛利氏と尼子氏の両者も、幕府からの使者を通じて和平勧告がなされた。しかし、石見制圧を急ぐ元就は幕府の言うことを聞かず、石見に繰り返し出兵している。

永禄4年(1561年)になると、九州方面では大友氏の攻勢が激化し、毛利方の豊前門司城にまで攻撃を加えてきた。一方、石見では元就から所領を替地にされ、不満を抱いていた福屋隆兼が反毛利の兵を挙げていた。結果、元就は豊前と石見の2方面に対処するハメとなる。

「さすがに、これ以上の負担は危険すぎる…」

元就はついに尼子氏との和平調停に応じ、翌年にかけて和睦を成立させている。(芸雲和談)

和睦後の永禄5年(1562年)、元就は福屋隆兼を攻略、続いて尼子方で石見銀山を守備する本城常光を降伏させた。これにより石見経略が成ったのである。

元就、中国の覇者となる

石見経略によって毛利の威光はさらに強まり、出雲国の有力国衆も毛利方に服属するようになる。

勢いを得た元就は、尼子氏との和談成立から半年もたたないうちに、この和談の破棄を通告するが、さらには、破棄して1カ月もたたずに出雲国への侵攻を開始。元就の切り替えはさすがというべきであろう。

対する出雲の尼子氏は、大友氏と連携。毛利方の豊前松山城を大友方に攻めさせた。元就は九州豊前の救援に隆元を向かわせることになる。

永禄6年(1563年)、隆元が九州戦線の任に当たると、豊前での「毛利 vs 大友」のにらみ合いは膠着状態に入った。しかしその後、幕府から和平調停の使者が訪れると、毛利・大友両氏の争いは収束に向かい、翌年までに和談となっている。(芸豊和談)

こうした情勢から、隆元は尼子攻めのために軍を返すことになった。しかしその帰り道、安芸国で兵を整えて滞陣している最中、酒宴の後に謎の急死をとげる。死因は食あたりとも毒殺ともいわれている。元就は隆元の死を知って深く歎き悲しんだという。

その後まもなく、元就は「とむらい合戦」と称して、尼子氏の支城である白鹿城を攻撃し、2ヶ月間の攻防戦で陥落させた。(白鹿城の戦い

尼子氏が滅亡

この勝利以降、毛利方は尼子の本拠・月山富田城の包囲網を構築すべく、支城をジワジワと攻略する。海路の補給線を断つなどし、永禄8年(1565年)の春には富田城へ最初の総攻撃を開始した。元就はこの戦いで味方の犠牲を最小限に抑えるべく、持久戦で臨んだ。

永禄9年(1566年)2月頃、元就は陣中で一時危篤状態に陥ったが、名医・曲直瀬道三の治療で回復したとされる。このとき元就はすでに70歳という高齢だった。やがて富田城の兵糧は欠乏していき、城からの脱走者も続出すると、同年11月、ついに尼子氏が降伏。元就は中国地方8ヶ国支配という偉業を成し遂げたのである。(第二次月山富田城の戦い


元就の晩年

四国、九州への出兵

尼子を滅ぼした後、1年余りは合戦もなかったが、永禄11年(1568年)の初めには、四国伊予の河野通直から援軍要請が届いた。河野氏と対立する宇都宮氏が、土佐の一条氏や長宗我部氏らの支援を受け、攻め込もうとしていたのである。

これを受けて元就は、四国への出兵を決意する。

河野通直は元就の孫にあたる宍戸隆家の娘を娶っており、河野氏は元就が危機の際にはたびたび支援に回った。元就はこの恩に報いるために兵を出したとされる。吉川元春・小早川隆景・宍戸隆家ら3万の軍兵を渡海させると、宇都宮氏を降伏させている。

続いて九州にも出兵。毛利氏と九州の大友氏とは和談していたが、毛利に心を寄せる豊前、筑前の国衆が増え、大友一族の中にも毛利氏に通じる者が現れはじめた。これにより、戦いが再燃したのだ。

大友一門だった立花鑑載の立花城が大友軍に包囲されると、毛利両川は救援に向かう。しかしこれは間に合わず、立花鑑載は自害。毛利はひとまず九州から撤退した。翌永禄12年(1569年)には毛利両川4万余の大軍で再び九州へ侵攻。豊前の門司城を奪取して拠点にすると、前年に大友に奪われていた立花城をも攻め落としている。

尼子再興軍が蜂起

しかし同年、元就は一時的ではあるが、窮地に追い込まれた。山中鹿之介が尼子国久の孫勝久を擁立して主家・尼子氏の再興軍を、さらには大内義隆の従兄弟・輝弘が大内氏の再興軍をそれぞれ興したのだ!

実はこれら反毛利勢力の蜂起は、いずれも大友氏が毛利氏の後方撹乱のために仕掛けたものだった。元就はやむなく九州から撤退し、山口に転戦。すぐさま輝弘を自害に追い込んだ。(大内輝弘の乱

一方、山中鹿之介ら尼子再興軍との戦い(布部山の戦い)は容易ではなく、以後も数年にもわたって続くことになる。

元就はその結末を知ることなく、元亀2年(1571年)、吉田郡山城にて75歳で永眠する。戦国最高の知将の生涯は、まさに合戦に継ぐ合戦だったといえよう。





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