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「第二次月山富田城の戦い」元就、ついに宿敵・尼子氏を滅ぼす!
──永禄8-9年(1565-66年)

合戦の背景

毛利氏と尼子氏は、石見国の石見銀山を巡って対立を繰り広げていた。毛利氏は二度の敗北を喫していたが、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなり、嫡男である尼子義久が家督を継いだあとに行われた雲芸和議が転機となった。和議を経た翌永禄5年(1562年)に、石見銀山は毛利氏の直轄地となる。一方、和議の内容への不満などから毛利側への離反などが起こりつつも、尼子側の勢力は出雲国の月山富田城を中心に残存していた。

白鹿城の戦い

同年7月、尼子家を攻めるため、毛利元就は3人の息子と軍勢を率いて出陣。着々と侵攻していった毛利軍は、12月には宍道湖北岸に築いた洗合城に本陣を構えることとなる。毛利軍がまず攻めたのは月山富田城の防衛網のひとつであり、日本海側に通じる要とも言うべき白鹿城である。この白鹿城を落とすことができれば、日本海からの兵糧の供給を断ち、月山富田城を孤立させることができるからであった。

白鹿城の北にある真山(新山)城を占拠するなど、白鹿城と月山富田城の分断を進めていった毛利方は、翌年の永禄6年(1563年)8月から総攻撃を開始。水を断つための坑道の掘削などが行われたのち、10月には落城を実現させた。これにより、月山富田城が新たに兵糧を確保するのは難しくなったのだった。

合戦の経過

白鹿城を陥落させたあとも、元就は尼子氏の拠点を次々に制圧していく。水軍による海上の封鎖はもちろん、鉄砲隊を配置することで海岸線の守りも固め、永禄8年(1565年)の春には月山富田城に通じる補給船はほとんど断ち切られた。そんな状況の中、毛利軍が月山富田城への総攻撃を始めたのは4月のことである。城内へとつながる3つの道を同時に攻めるという作戦で、正面を元就の軍勢、南側を元就の息子である元春の軍勢、北側を同じく息子の隆景の軍勢が攻めていった。これに対し、尼子側も尼子義久を筆頭とする3つの軍勢によって、毛利軍の攻撃を防いだ。尼子軍の士気は高く、毛利軍の城内侵入はことごとく阻止される。やがて元就は総攻撃を中止し、洗合城への一時撤退を決めた。

【第二次月山富田城の戦い 関連マップ】


同年9月に再び毛利軍は月山富田城を包囲。飯梨川を挟んでの対峙となった局面で、尼子軍の山中鹿之介が毛利軍の品川将員との一騎打ちで勝利し、将員を打ち取ったとされている。しかし、このときの毛利軍は力で押すのではなく、兵糧攻めを継続した。これが原因となって月山富田城内の兵糧は危うい状態になり、投降者も出始めるようになる。投降者に対しての毛利側の対応は無情なもので、降伏を認めずに処刑を行っていた。これは容易に投降者を出させないことで、孤立した城に大勢の兵を籠らせ、城内の兵糧の減りを早めるための策である。こうして補給の手立てもない中で冬を迎え、いよいよ城内の兵糧が底を尽きようかという頃合いで、毛利側は降伏を認める趣旨の高札を立てた。高札の効果もあり、尼子側からは兵が集団で投降する姿も見られ、さらには重臣までもが投降していったという。

尼子側のほうでも、宇山久兼が私財を犠牲にしてまで購入した兵糧を密かに月山富田城へと運び入れるなどして、なんとか厳しい籠城戦を耐え抜こうと奮闘していた。ところが奮戦の折、元就が得意の調略を仕掛けたことで、誤解により尼子義久が宇山久兼を殺してしまう。この事件が引き金となり、尼子軍の士気は段々と喪失していくことになる。そして永禄9年(1566年)11月、ついに尼子氏は降伏。尼子義久や山中鹿之介は捕らえられたものの、毛利側は義久らを処刑することはなかった。また、月山富田城の陥落をきっかけとして、まだ残っていた尼子側の城も開城した。元就は尼子氏の降伏のあと、月山富田城の福原貞俊らを城代として入城させた。さらに翌年には城代は交代し、その後に城主となったのは元就の五男である毛利元秋であった。

戦後の影響

大内氏に続き尼子氏を打ち破った毛利氏は、この勝利によって中国地方で最大の戦国大名となった。勢いを増した毛利氏はこの後、さらに勢力を拡大していくこととなる。その一方で、尼子氏が降伏したことに不満を抱く山中鹿之介は叔父などと共に、尼子氏を再興するべく奔走を続けていく。

【逸話】神の化身か?尼子の刺客が驚愕

※『名将言行録』より

第二次月山富田城の戦いで、元就が洗合に陣をとって尼子の本拠・月山富田城を包囲していた時のこと。尼子の家臣に熊谷新右衛門・原宗兵衛という2人がいた。この2人が主君・尼子義久の前にでて言った。

熊谷新右衛門

降参して元就の洗合の陣に赴けば、元就めは必ずや対面をするでしょう。そのときの隙をねらい、我ら2人が同時に飛びかかり、刺し殺してしまえば、なんということはありません。

家臣アイコン

原宗兵衛

そのときにはどうか、我らの子たちに所領を賜りたく存じます。

家臣アイコン

これを聞いた義久は大変よろこび、さっそく2人の子に若干ずつの知行を与えた。

熊谷新右衛門

どんな猛々しい元就といえども、我ら2人が左右から捕えれば、よもや逃すことはあるまい。

家臣アイコン

原宗兵衛

フフ、元就ごときを討つことなどたやすい事よ。

家臣アイコン

こうして2人は大口をはき、出かけて言ったのであった。

---元就の陣営---

熊谷と原の2人は洗合に着いて降参の旨を伝えると、案の定、元就はすぐに対面した。その日は降人(=降参したもの)が3000余人もあって、2人もまたその中に混じって元就の前に出た。しかし、予想に反して上段の間には元就父子3人が着座しており、次に福原・桂・児玉以下の毛利家臣らが20余人も並んでいたのである。

2人は元就につけ入る隙も見当たらず、ただお辞儀をするだけで退出したのであった。

毛利元就アイコン

元就

今日の降人のうち、5・6人目に出てきた者は疑わしい。きびしく番人をつけておくのじゃ。

元就はこう言って警固の者を数人置いた。そして2人は何もできず、警固の隙をうかがって富田城に逃げ帰った。

---月山富田城---

2人が富田城に戻ると、義久から結果をたずねられた。

熊谷新右衛門

そ、それが・・・。かくかくしかじかで・・・。

家臣アイコン

事のいきさつを説明し、しまいには・・・

原宗兵衛

元就は人間とは思われません。どうも神の化身ででもございましょう。。

家臣アイコン

と、両人は語ったのであった。

【逸話】大力の士

※『名将言行録』より

月山富田城が包囲されて窮地に立たされていた尼子氏は、和睦の使者として大杉抜右衛門という怪力の将を元就のもとへ遣わした。彼の"抜右衛門"という名の由来は、かつて周囲二尺程もある杉を根こそぎ引き抜いたため、主君の尼子経久がそう呼んだのである。

元就はその抜右衛門の大力を誉め、そして言った。

毛利元就アイコン

元就

大木ではないが、庭の前にある杉を抜いてみせてくれぬか?

大杉抜右衛門

い、いや、それはちょっと・・・。

家臣アイコン
毛利元就アイコン

元就

・・では貴殿ほどの力持ちではないが、この杉をひっこ抜くほどの力持ちが我が方にもいるから、抜かせてみせよう。
藤十郎!!

廻神藤十郎元豊

殿、いかがなされましたか。

家臣アイコン
毛利元就アイコン

元就

杉を引き抜いて、抜右衛門殿にお見せしてみよ!

廻神藤十郎元豊

はっ!承知いたしました。

家臣アイコン

元豊は承知して立ち上がると、杉をいとも簡単に抜いて庭の中ほどに倒したのであった。

これは元就が前日から杉の根を切っておいたから成せたことであり、元就が敵の気を奪おうと考えた策であった。
抜右衛門は恐れをなした様子で退出していったという。





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