丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大寧寺の変」陶隆房の謀反で大内氏が衰退。元就の動向は?
──天文20年(1551年)

大寧寺の変(だいねいじのへん)とは、周防国(現在の山口県)の大名・大内義隆が重臣・陶隆房によって自刃に追い込まれるという一連の政変の事を指す。

背景

この政変の背景には大内氏と敵対する尼子氏、大内氏配下の毛利氏などの関係が浮かび上がる。政変の中心人物は大内氏とその家臣団であるが、その後の大内氏の衰退と毛利氏の台頭へとつながる結果になった。

天文11年(1542年)大内義隆は家臣・陶隆房を大将として、尼子氏の本拠地出雲の国へ侵攻を開始した。しかし、陶隆房は月山富田城に籠る尼子晴久に苦戦し、なかなか城を陥落させることは出来なかった。それどころか、翌年の初めに大内氏は大敗を屈し、敗走途中で大内義隆の甥である晴持を溺死によって失うという悲劇が起こる。これ以降、義隆は家臣の陶隆房を家臣団の中心から遠ざけ、文治派の相良武任を政局の中心とした。

度重なる敗戦で義隆は合戦や政治への関心が薄まり、茶の湯などに没頭するようになる。文化に散財し、その費用の穴埋めを年貢の増税に課したため、領民からは不満の声が上がるようになった。家臣団も分裂し、武功派の陶隆房らと文治派の相良武任は対立を深めるようになる。

天文14年(1545年)身の危険を感じた相良武任は肥後の国へ逃亡。しかしその後、相良武任が大内氏へ復帰するなどしたため、陶隆房らの不満は強まっていった。大内義隆の相良武任らに対する依怙贔屓が陶隆房を謀反へと走らせる背景になったのである。

天文18年(1549年)、隆房は密かに毛利氏に近づく一方で、大内氏と毛利氏の同盟を結ぶ役割を担う。隆房自身も毛利氏の重臣などと手を結んで基盤を強化する。

天文19年(1550年)には、隆房が武任を暗殺しようと企み、武任は再度逃亡する。隆房の謀反の噂も流れ、冷泉隆豊は義隆に隆房を暗殺するよう進言するなど緊張状態が続いた。先に逃亡した相良武任は陶隆房と和睦しようとしたが、隆房自身がこれを拒んだとも言われている。当時の陶隆房の行動については、毛利氏の資料から伺い知る事が出来る。

『吉川家文書』によると、同年8月頃に「他の家臣と共謀し、義隆を廃し、嫡子の義尊に跡目を継がせる」という旨の文書を毛利元就吉川元春へ送ったと書かれている。その見返りに隆房は所領を得る事を毛利氏から約束されていた旨の資料もある。同年9月の例祭の時には、陶隆房が大内義隆と相良武任を幽閉する計画を立てているという噂が流れ、警戒した義隆は例祭に参加せず、代役を立てるなど緊張はより高まっていった。

11月頃、隆房は居城の若山城に籠る構えをみせ、翌天文20年(1551年)2月には大頭役の勤めも果たさなかった。一方の義隆は隆房の謀反に備えて居城に籠り、一触即発の事態となる。

経過

同年8月、ついに陶隆房は内藤興盛らと協力して大内義隆に対して兵を挙げた。これに呼応してかねてから密約を結んでいた毛利氏も挙兵。厳島をはじめ、山陽道の要所を押さえる事に成功する。この頃には杉氏も陶軍に寝返っており、兵力は1万ぐらいであったとされる。

一方の大内義隆は大友氏の使者と酒宴を開いており、杉氏ら重臣を信用していたのか行動が重かった。ようやく事の重大性に気が付いた義隆は、冷泉隆豊に守りを固めさせ法泉寺の本堂に本陣を置いた。兵力は2~3千であったとされ、ほとんどが離散していたと言われている。

大内氏館は放火され、宝物が略奪されるという事態になる。兵が逃亡するなど劣勢の義隆軍は「義隆は隠居し、嫡子の義尊を当主にする」という和睦案を提示するが拒否される。ついに義隆は山口を捨て長門へ、さらに吉見氏を頼って石見へと逃亡を図るが暴風雨に遭い、長門深川にある大寧寺に籠る。

【大寧寺の変 関連マップ】


9月1日の10時ごろ、冷泉隆豊の介錯により義隆は自害して果てた。その後、隆豊も陶軍に突撃をかけ討ち死にを遂げる。義隆の嫡男・義尊は逃亡中に捕えられ殺害、また三男の歓寿丸も翌年に捕らえられ殺害されてしまう。義隆と共に生活していた多くの公家衆もこの政変の際に殺害されており、隆房の義隆らに対する憎悪の深さを伺い知る事が出来る。

その後

相良武任も花尾城に籠って陶軍と戦うが、ついに打ち取られる。その後も、義隆派の平賀隆保などを陶・毛利の連合軍が攻め、義隆派の武将は次々に降伏していった。陶軍に味方をした杉重矩は、かつて義隆に隆房を讒訴するなどしていた事がバレたため、長門との長興寺で自害に追い込まれるなど混乱は続いた。

天文21年(1552年)の3月に、豊後の大友氏より大友晴英を大内氏の新当主に迎え入れた。大友晴英は大内義長と改名し当主の座におさまり、忠誠を誓った隆房であったが実際は隆房による傀儡政権であった(この頃より隆房は晴賢と改名)。その後の義長と晴賢の新政権は軍事力を強化していくのだが、国人の賦役を増やしたためかえって反発を招いた。毛利元就らも隙をついて尼子氏の領地を掌握して巨大化し、その後の厳島の合戦で大内氏・陶氏を破る力をつけていく。

大寧寺の政変に関しての評価は様々である。毛利元就は後になって、政変当時は毛利氏としては陶氏に協力はしたものの、主君の義隆を滅ぼした隆房(晴賢)の罪は重いとして非難し、厳島の合戦で大内氏と陶氏と戦った正当性を主張している。しかし、大友氏の家臣として有名な立花道雪は「政治を顧みない義隆が道理を説いた隆房よりも無道を企てた相良武任らを贔屓した」とし、隆房の謀反はやむを得なかったというような事を言っている。いずれにしても、政変の数年後に大内氏と陶氏は共に滅びる事になり、毛利元就の台頭を許す結果となった。





関連ワード


おすすめの記事

 PAGE TOP