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「長享の乱」山内上杉 vs 扇谷上杉
──長享元-永正2年(1487-1505年)

太田道灌の暗殺が引き金となって大乱が勃発

長享の乱は、有名な応仁の乱と同じく、長期に渡って繰り広げられた争乱の総称である。京都で勃発した応仁の乱が約10年間だったのに対し、関東を舞台にした長享の乱は約30年もの長い戦乱となった。

長享元年(1487年)から永正2年(1505年)まで続いたこの戦いで、関東の勢力は敵味方を問わず衰退し、鎌倉幕府以来の名門の一族が次々に姿を消すこととなる。その結果、駿河今川家の客将だった伊勢宗瑞(=北条早雲)が伊豆から関東に攻め込むと、対抗する余力に乏しく、関東に地縁の無い後北条氏が関八州を制覇していく遠因となった。

長享の乱は、関東の最大勢力であった上杉氏の内輪争いが軸になっている。上杉氏は鎌倉時代以来の名門で、足利幕府になってから地歩を固め、関東の将軍である鎌倉公方を補佐する管領の一族となった。つまり、関東で将軍に次ぐ権力を持った一門である。その上杉氏は、山内(やまのうち)上杉氏と扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉氏の2つに分かれていた。どちらも鎌倉の地名で、それぞれの屋敷があった場所からそう呼ばれている。

両上杉氏は、戦国時代の序盤は一族で団結して他家と戦っていた。特に、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が京都の幕府と対立し、下総の古河に移って古河公方となってからは、一貫してその足利成氏と戦った。これを享徳の乱といい、長享の乱の前段階の争乱と位置付けられている。その享徳の乱で活躍したのが太田道灌で、扇ガ谷の当主上杉定正の家臣である。江戸城を築いた武将としても名高い。

道灌の活躍は、本来上杉氏の宗家である山内上杉氏にとって心地良いものではなかった。山内家当主・上杉顕定は策を講じ、讒言を持って上杉定正と道灌の仲を裂いた。そのため、道灌は文明18年(1486年)7月26日、主君によって相模国糟谷館で暗殺されてしまう。

これをきっかけに、両上杉家の関係は一触即発となった。そして翌長享元年(1487年)、上杉顕定は扇ガ谷上杉方の下野国勧農城を攻め、同族同士が相食む長享の乱が始まる。

扇ガ谷が緒戦に勝利するも、戦線は膠着

長享の乱は、山内上杉氏、扇ガ谷上杉氏、元はその両家と敵対していた古河公方足利氏、そして西方伊豆からの新興勢力である北条氏の4つの勢力が抗争を繰り広げた。30年近くに渡るため、各勢力で世代交代が起きているが、基本構造は変わらないまま推移し、最終的に両上杉氏の同盟関係が復活する。しかし上杉氏全体の衰退は進み、小田原城を本拠とした北条氏の台頭を許していくことになる。

乱が勃発した翌年の長享2年(1488年)は、「長享三戦」とのちに呼ばれる戦いが武蔵国で連続し、いずれも扇ガ谷上杉氏が勝利した。2月の実蒔原(さねまきはら)の戦い、6月の須賀谷原(すがやはら)の戦い、11月の高見原の戦いである。この連勝で優位に立ったはずの扇ガ谷上杉定正だったが、太田道灌を誅殺したことの動揺は続き、家臣団に離反者が続くなどしたため、戦況は膠着した。この時期、扇ガ谷上杉定正は京都の幕府の後援を受けた伊豆の北条早雲と呼応し、早雲は箱根の坂を越えて相模に侵入して、山内上杉顕定を牽制する役割を果たしたようである。

明応3年(1494年)10月2日に、扇ガ谷上杉定正が進軍中に川を渡ろうとして落馬し、死亡した。扇ガ谷家は朝良が継いだが、争乱のパワーバランスは崩れ、山内上杉顕定の攻勢が強まる。古河公方足利成氏とその後継者の足利政氏は、扇ガ谷から山内に旗幟を変え、明応5年(1496年)にはのちに北条氏の本拠となる小田原城が山内上杉顕定によって攻め落とされている。しかし駿河今川氏の勢力をバックに持つ早雲の助力で、扇ガ谷上杉朝良は小田原城を取り戻し、その後どちらかが決定打を放つことはなく、争乱はいたずらに続いていった。

勝者のいない大乱の終結

長享の乱で最も大きな戦いになったのが、永正元年(1504年)の立河原の戦いである。この年の8月、山内上杉顕定が扇ガ谷上杉朝良の居城河越城を大軍で包囲した。そこへ北条早雲が駿河今川氏の当主今川氏親らと共に援軍に訪れ、古河公方を継いでいた足利政氏も山内側に加わって、両勢力が勢ぞろいした決戦となったのである。

9月27日の戦いは扇ガ谷・北条・今川連合軍の勝利に帰し、山内・足利連合軍は2千人以上の死者を出して撤退した。ところがこの敗戦を聞いた越後守護の上杉房能が、実兄である上杉顕定の窮地を救うため、強大な援軍を派遣してくる。ここで形勢は逆転し、再び居城の河越城を包囲された扇ガ谷上杉朝良は、翌永正2年(1505年)3月に降伏を余儀なくされた。こうして両上杉氏の長い戦いは終息し、長享の乱は幕を閉じた。

その後

扇ガ谷朝良は殺されず、朝良の妹が山内家に嫁ぐ形で両家は同盟を結ぶ。しかし平安は長続きせず、永正6年(1509年)山内上杉顕定が越後に出兵して関東を留守にすると、かつて扇ガ谷方に与した武将による反乱が起き、加えて北条早雲も相模攻略を開始する。さらに永正7年(1510年)に上杉顕定が戦死し、山内家で後継争いが始まると、古河公方家でも足利政氏とその嫡男による親子での争いが生じて、混迷はより一層深まる結果となった。

長享の乱は、30年に及びながら勝者のいない争乱だったと言っていい。関東を支配していた両上杉家がいたずらに争いを繰り返し、まずは扇ガ谷家が力を失う。といって山内家が勝った訳でなく、顕定の跡目を巡った争いで支配力を低下させていく。 こののちは、古河公方家と山内家の後継争いが軸となる「永正の乱」が始まるが、結局は88歳の高齢を保った北条早雲が各勢力のしがらみを武力で突き破り、相模一国を支配していく。そして、早雲の後継者たちが上杉氏や古河公方家を圧倒し、関東を手中に収めて、後北条氏の全盛期を築いていくことになるのである。





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