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「永禄の変」将軍殺害という究極の下剋上となった事件。
──永禄8年(1565年)

戦国の幕開けとなった応仁の乱から織田信長の上洛までの100年の歴史は、足利将軍の継嗣問題や畠山氏の後継者争い、さらに将軍に代わって実権を握った管領細川氏の家督争いや政権争いも加わり、挙句の果てには細川の家臣だった三好氏が政権を奪うという、まさに下剋上が繰り返された百年だったと言える。

そんな中でも最大の下克上が、本記事でとりあげる「永禄の変」である。将軍の足利義輝が、家臣の三好三人衆と松永久通に討たれたクーデターであり、人目をはばかった暗殺ではなかった。彼らは自己の正当性を云々することなしに、将軍の御所を取り囲んで攻め滅ぼしたのだから、下剋上の代表例と呼ぶほかないだろう。

事件の背景

足利義輝が13代将軍に就任した時点で、将軍権力はすでに地に堕ちていた。義輝以前の将軍たちは、家臣たちの対立抗争を恐れて京の御所にいる事ができず、近江朽木の山中に身を隠していたほどだ。義輝自身も父の12代将軍義晴と共に幾度も都落ちを経験している。

将軍権威の復活を目指す義輝

天文15年(1547年)12月にわずか11歳で将軍となった義輝は、長ずるにつれて足利幕府の復興を画策するようになった。大名間の抗争に介入したり、守護職の任命権を利用して影響力を発揮し始め、幕政を侵食していた伊勢一族を排除するなど、将軍親政とも言うべき体制を目指したのである。

この動きに対し、家臣たちが反発するのは当然だった。幕府権力は足利将軍家から細川家、さらにその家宰の三好家へと、世代を重ねて簒奪されてきている。家臣たちにとって将軍はとうに傀儡、つまりお飾りでしかなかったのだ。
こうして義輝は、将軍でありながら、排除されるべき厄介な存在になってしまうのである。

長慶の死で幕府再興を加速させる。

義輝在任中の幕府を牛耳っていたのは、三好家の当主・三好長慶だった。義輝のパートナーであり、かつ最大の政敵でもあったこの長慶が永禄7年(1564年)7月に病死する。43歳の若死にで後継者が若年だったため、三好家は三好長逸・三好政康・岩成友通の三好三人衆と松永久秀・久道親子によって担われることになった。

この機に将軍義輝は、さらに自身の勢力拡張を図ったとされる。このあたりの動きに関しては歴史家の間でも意見が分かれており、義輝の親政がどこまで現実的だったのかは、判断が俟たれる。 いずれにせよ、当主長慶の死で混乱している三好家が、将軍に余計な動きをされるのを嫌がった可能性は高く、義輝と三好家臣団たちの対立は深まっていった。

事件の経過・結果

事件は長慶の死から約1年後の永禄8年(1565年)5月に起きる。

19日に清水寺参詣を口実に兵を動かした三好三人衆と松永久通は、1万とも言われる兵で義輝の二条御所を囲んだ。将軍に訴訟(政治要求、江戸時代の直訴のようなもの)があると言い募って門を開けさせ、御所に攻め入った。多勢に無勢なのは明らかだったが、将軍側近たちの戦いぶりは凄まじく、一色輝喜・上野輝清たちが三好方を数十名討ち取ったと記録されている。彼ら側近たちは、御所を枕に全滅するまで戦った。

義輝の最期

義輝の死に様もまた、凄まじいものだった。剣豪塚原卜伝に剣術を習っていた義輝は実戦におぼえがあり、自ら薙刀を持って三好の兵と切り結んでいる。薙刀を失うと、幕府秘蔵の数々の名刀を鞘から抜いて畳に指し、折れては新しい刀と替えながら、ひたすらに攻め来る敵を斬っていった。

その最期は、槍で傷ついたところを一斉に襲われ切り刻まれたとも、畳を楯にした敵兵に四方から同時に突き刺されたとも伝わる。 公家の日記には「生害された」とあり、自刃も考えられる。いずれにしても、尋常な死に様ではなかった。鎌倉・室町・徳川の幕府将軍で、暗殺された者はいるが、自ら刀を取っての大往生は義輝だけである。30歳の無念の最期だった。

永禄の変の様々な見方とその後

戦国時代の第一級史料である『日本史』を著したルイス・フロイスによれば、二条御所が襲撃される前日、義輝は三好方の襲撃を察して御所から一度脱出していた。しかし将軍の権威が失われるとの側近たちの言を入れ、再び御所に戻ったという。似たような状況で、義輝は過去に幾度も都落ちを経験しているから、丸きり考えられない話ではないだろう。また、三好方の襲撃はいずれあると見越して御所の守りを増強していたが、門の修理が完成する前に決着を図ろうとした三好方に先を越されたという話もある。

永禄の変、または永禄の政変と呼ばれるこの事件は、様々な説や見方が歴史家から提起されてきた。 足利将軍家と三好家の関係は、これまで考えられていたほど険悪ではなかったのではないか。三好の軍勢が御所を囲んだのは本当に訴訟が目的で、偶発的に戦いが始まってしまったのではないか。義輝の親政は三好方を恐れさせるほど実際の影響力があったのかなど、事件の実像を解き明かすため、多角的な視点から検討が進められている。

変ののち、三好方は義輝の弟二人をも襲った。鹿苑院の院主を務めていた末の弟は殺され、もうひとりの弟、興福寺一乗院の門跡・覚慶は幽閉された。覚慶はしばらくのちに脱出し、三好方を討つべく各地の大名のもとを渡り歩いた末、織田信長に擁されて京都に返り咲き、足利幕府の最後の将軍・足利義昭となる。三好三人衆は信長によって滅ぼされ、松永親子はいったん信長の家臣になるがのちに裏切ったためやはり誅滅された。

足利義昭の脱出を手引きした一人が細川藤孝で、肥後熊本藩52万石の大名細川家の藩祖となる。越前朝倉家に身を寄せた義昭と、天下を狙う織田信長を結び付けたのは、あの明智光秀だった。なお、義輝殺害後、三好三人衆らは義輝のいとこを将軍にまつりあげている。足利義栄(よしひで)というが、将軍の位にあったのは半年ほどで、淡路や摂津に滞在し、京都に入ってすらいない。元々病を得ていたらしく、幕政にほとんど影響を与えないまま、織田信長上洛直後の混乱の中で病死した。彼の存在からも、この時代の足利将軍の地位がいかに軽かったかが分かるだろう。





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