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「十河存保」阿波で勢力挽回に努め、ライバル長宗我部氏と何度も激闘!

戦国時代中期、畿内四国地方で覇を唱えた三好一族、その一族の最後の一人が十河存保である。かつての戦国時代の太守の生き残りである彼がどのような人生を送ったのだろうか。そしてその最期は一体どのようなものだったのであろうか。

十河家の家督継承

十河存保は天文23年(1554年)、三好実休(三好義賢)の二男として生を受ける。この当時の三好家は、叔父の三好長慶の下で最盛期を迎えており、存保も三好家の一軍の将として一生を終えるはずであった。ところが永禄4年(1561年)に長慶の四弟である十河一存が急死、翌年には父親である三好実休が教興寺の戦いで戦死するなど身内に不幸が続く。

そして長慶の長男・三好義興が永禄6年(1563年)8月に亡くなると、京都の公家との関係から一存の息子である三好義継が後継者として選ばれ、代わって存保が一存の養子という形で十河家を継ぐことになった。ただし、家督を継いだ当時の存保や兄である三好長治、三好義継ともに全員若かったことや短期間で長慶の兄弟が相次いで亡くなったことから長慶死後の三好家では家臣や一門の内紛が起こり、三好家は急速に衰退し始める。

兄のツケを支払う羽目に

このように身内争いをしていた三好氏は尾張美濃から上洛した織田家によって、天正3年(1575年)頃までに畿内から追い出されている。このため、最盛期には「日本の副王」とまで呼ばれた三好家は四国の地方大名にまで転落する事になった。

ところが存保の兄である三好長治は結構器量が狭い上に強権を振りかざすような人間だったようで、讃岐国の国人である香西氏や香川氏に警告文が存保に送られるまでになってしまう。存保もこの件について問題に思っていたため、長治に諫言を行うが逆切れした長治は香川氏や香西氏を攻撃してしまい、さらには法華宗の改宗を強行しようとしたことで領国総スカンを喰らってしまい、ついには天正5年3月28日(1577年4月16日)守護である細川真之によって討ち取られた。

このような三好家中の混乱状態の中、土佐の長宗我部元親が三好の領国の阿波に侵攻、ほぼ長治によって崩壊しかけた三好家を存保は支えていかなければならない羽目になる。

元親との戦い

こうして、三好家の実質的な指導者となった存保は織田家と同盟を結ぶことで長宗我部家と対抗する道を選ぶ。というのも、天正8年(1580年)に長宗我部家と織田家の間は断交状態になっており、当面の間三好家と織田家の関係は敵の敵は味方のような状態になっていた。

このような情勢下の中、存保は攻勢を仕掛ける。まずは、一族の三好康長の子どもを長宗我部氏から離反させ、さらには織田信孝を中心にする織田軍四国遠征軍が四国に渡海する予定になっていた。ところが、天正10年(1582年)6月2日本能寺の変が発生。四国遠征軍は崩壊するわ、なんか有力家臣同士で内紛が起きるわで織田家は四国に手を回す余裕がなくなってしまう。それは三好家が後ろ盾を失った瞬間だった。

8月には居城である十河城防衛戦において十河城を守りきる事には成功するものの、同時期に行われた中富川の戦いで配下の有力武将が軒並み戦死してしまうほどの大敗をしたことにより、阿波の支配権を失ってしまう。それでも一時的に細川真之を討ち取る等奮戦はしたものの天正12年(1584年)6月に最後の拠点である虎丸城が落城。存保は豊臣秀吉を頼って一路大阪へと落ち延びた。

戸次川での戦死

その翌年の天正13年(1585年)6月、四国征伐後に存保は讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した。 ただ、この待遇は非常に冷遇されたものであった。まず、存保は仙石秀久の与力大名の地位とされた上に三好家の家督継承権や阿波の領有権を否認するものであったからである。

天正14年に九州征伐に従軍するのだが、仙石秀久の無謀な敵前渡河を強行しようとする。それに対して存保は元親とともに反対したとも、元親への対抗心から積極的に賛成したとも言われている。ともあれ天正14年12月12日(1587年1月20日)、戸次川を渡った豊臣軍であるがそこで島津家久率いる島津軍に迎撃されてしまい、豊臣軍は大敗してしまうことになる。 この戸次川の戦いで十河存保は戦死した。享年33歳。

その後の十河家

死の間際、存保は「自分が亡くなったら自分の子どもの千松丸を必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に伝えて戦死したという。しかし、存保の死後、秀吉は彼の所領を没収してしまう。千松丸は3000石を鼻紙代として新しく讃岐の領主になった生駒氏に与えられた。天正17年(1589年)7月に千松丸は秀吉に謁見する。この時秀吉は彼に3000石しか与えられていないことに深く嘆いたといわれているが謁見し、讃岐に戻った直後に千松丸は急死してしまう。一説には生駒氏が毒殺したのではないかといわれている。 千松丸の弟である存英は流浪の生活を送った後、大阪の陣に豊臣家に参加し、慶長20年(1615年)5月に戦死した。これによって十河氏は断絶したといわれている。





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