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「三好実休」兄長慶を支え、三好政権で四国方面を担った将

三好実休の肖像画
畿内で三好政権を打ち立てた実力者の三好長慶は有名だが、その弟である三好実休についてはあまり知られていない。彼は兄のサポートをしながらともに三好政権の一翼を担った重要人物である。久米田の戦いで戦死するまでの生涯を紹介していく。

生まれてから三好政権の一翼を担うまで

三好実休は1527年に細川晴元の重臣である三好元長の子として誕生した。

1532年に父の三好元長は足利義維と一緒に木沢長政を攻め立てていたが、背後から一向宗の軍勢に襲われて追い込まれた末に自害した。1534年から阿波国の守護細川持隆に仕えるようになる。兄の三好長慶は変わらず細川晴元に仕え続ける。1539年に主君の細川持隆に従って伊予国の河野家に侵攻している。同年に兄の三好長慶は父の三好元長の河内国の遺領を奪還するために上洛して室町幕府将軍の足利義晴や管領の細川晴元を追放するも、三好長慶は細川晴元と和解して摂津国の越水城主を任されることになる。

1544年に兄の三好長慶にしたがって四国から京都に入って畿内に拠点を移す。同年7月に細川晴元をはじめとする三好長慶らの軍が細川晴元と対立する細川氏綱遊佐長教らの軍と衝突する。これを舎利寺の戦いといい、応仁の乱以降で畿内における最大の規模の戦いとされている。

この時代の畿内の最大勢力は細川晴元で、家臣の三好長慶に命じて細川氏綱や遊佐長教を攻撃させるもなかなか決着がつかなかった。そこで阿波国の守護細川持隆に援軍要請する。このときに三好実休や淡路水軍を率いる安宅冬康などの三好長慶の兄弟の勢力を結集させた。その結果、細川氏綱、遊佐長教らに大勝して畿内の制圧することに成功した。この舎利寺の戦いで畿内全土にその実力を知れ渡ることになった兄の三好長慶は、幕府の実権を掌握した。弟の三好実休は讃岐と河内を治め、安宅冬康も和泉岸和田城の城主に任命されて、三好政権の一翼を担うようになった。

勢力を拡大させていき最盛期を迎える

1548年に三好実休は父親の仇である叔父の三好政長を倒そうとするが、主君の細川晴元はそれを許さなかった。このことから細川晴元と対立するようになる。1549年には江口の戦いで弟の十河一存が三好政長を攻め立てて自害に追い込み、同年兄の三好長慶が京都から将軍足利義晴、その息子の足利義輝、管領の細川晴元を追放した。そして、細川氏綱を管領に就任させた。しかし、1552年に三好長慶は畿内を安定化させるために足利義輝と和解する。

1553年に実休は主君の細川持隆にクーデター事件を起こす。実休は持隆の子である細川真之を阿波国の細川家の当主に据えようとしたが、持隆派である久米義広や佐野丹波らが反抗した。彼らを鑓場の戦いで打ち破って、同年6月に細川持隆を自害に追い込んだ。三好実休は細川真之を阿波細川家の当主に据えて、阿波国の細川家の実権を掌握することに成功する。同年、和睦したはずの三好長慶と足利義輝が再び対立して、三好長慶は義輝と細川晴元を攻撃して勝利を収める。

1557年に三好長慶は播磨国、丹波国を平定し、1558年に足利義輝と細川晴元の連合軍を打ち破って、幕府の相判衆になる。1559年に家臣の松永久秀が大和国を平定することに成功し、河内国を実質的に支配していた安見直政も攻撃して勝利する。1560年に三好実休は三好長慶とともに河内守護の畠山高正らと戦って勝利し、彼らを追放した。その結果、三好実休は河内国の守護に任じられる。こうして三好家の勢力がどんどん拡大して最盛期を迎えることになる。

久米田で戦死

三好家が全盛期を迎えていた中、1561年5月に三好長慶の右腕的存在だった弟の十河一存が死没する。これを三好家の弱体化の始まりだと見た六角義賢は細川晴元の息子である晴之を担ぎ上げて三好家に対抗した。六角義賢は将軍山城から京都に軍勢を派遣しようとし、その一方で、京都の南から六角義賢と同盟関係にある畠山高政が攻撃しようとしていた。三好長慶は息子の三好義興と松永久秀を派遣して北に向かわせて、三好実休を南に向かわせた。実休は総大将として7000人の軍勢を率いて久米田寺周辺に布陣した。こうして始まった戦いが久米田の戦いである。

しかし、1562年になっても小競り合いを繰り返すだけで、一進一退の攻防が続く。同年3月5日に畠山軍が真夜中に三好実休軍が布陣する久米田を襲撃した。両者は激しく衝突して三好軍は畠山軍をどんどん追い込んでいく。しかしながら、軍が前進しすぎてしまって肝心の本隊である三好実休の周辺がわずか約100騎程度になってしまった。そこを見逃さなかった畠山軍は実休めがけて集中攻撃を繰り出して、実休は周辺の家臣たちととともに討ち取られることになった。
『厳助大僧上記』によると、実休は鉄砲によって受けた傷が致命傷になって戦死したといわれている。享年36。辞世の句は

草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず

この久米田の戦いで総大将を失った三好軍は総崩れとなり、弟の安宅冬康も淡路に敗走していった。





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