丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「享徳の乱」約30年も続いた一足早い関東の乱世!
──享徳3-文明14年(1455-83年)

戦国時代は応仁の乱の勃発によって突入したが、実のところ、関東に限定すればもっと早くから乱世は始まっていたのである。

室町幕府が中央と地方で対立!

南北朝時代の正平4年/貞和5年(1349年)に、初代将軍足利尊氏の次男の足利基氏が鎌倉府に入り、初代鎌倉公方となる。

ちなみに"鎌倉府" というのは、関東における幕府の出先機関であり、"鎌倉公方" はその長にあたる。鎌倉公方の補佐役が"関東管領"である。鎌倉府は京と離れているのもあり、独立志向が強くなった鎌倉公方が権力を徐々に増大させていった。その結果、京と関東で2つの将軍が併存するような状態となり、室町幕府と鎌倉公方の対立が深まっていくことに・・・。

4代鎌倉公方・足利持氏の代に対立が顕著になる。きっかけはクジ引きで足利義教が6代将軍に決定したことであった。持氏は自分が将軍に就けなかったことでこれに反発して中央で使っていた元号を用いなかった等、幕府に対して不服従の態度を示した。関東管領の上杉憲実(のりざね)は持氏に考えを改めるように忠告するが、持氏は聞く耳をもたずに憲実とも関係を悪化させ、憲実は関東管領職を辞任したのであった。

そうした中、永享10年(1438年)には憲実が分国であった上野平井城にのがれ、これを許さない持氏は上杉憲実討伐のために挙兵。憲実が幕府に救援を頼み、幕府と関東管領を敵に回してしまった持氏は翌年に自害、鎌倉公方は一時的に消滅となった。(永享の乱)

永享12年(1440年)には下総国の結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児を擁立、幕府に対して反旗を翻すも結城氏朝・持朝は敗北して討死(結城合戦)、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は美濃に送られて処刑され、成氏は京都に送られた。

翌年の嘉吉元年(1441年)、中央ではこの結城合戦の祝勝の宴として6代将軍義教が家臣の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれ、首をはねられるという事件が勃発。万人恐怖の政治を行なった義教のあっけない最後であった(嘉吉の乱)。

鎌倉府再興と新たな火種

永享の乱以後、上杉憲実は政争を嫌って弟の上杉清方(きよかた)に託して出家してしまう。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるも、憲実はこれを拒否したことでやむなく上杉清方を関東管領として認めた。しかし、その清方は文安元年(1444年)に死去し、関東管領の地位が再び空白となる。その一方で断絶していた鎌倉府再興の運動も開始された。

上杉氏や関東諸士から幕府への働きかけや幕府管領の畠山持国の支持などもあり、宝徳元年(1449年)には鎌倉府再興が承認され、5代目鎌倉公方に足利持氏の遺児である足利成氏、関東管領に山内上杉家で上杉憲実の嫡男である上杉憲忠が就くことになった。
ここに新たな火種が存在していた。成氏からみれば憲忠は父の仇である憲実の子。成氏は憲忠を疎んじて対立を深めていった。

宝徳2年(1450年)には関東管領を世襲した山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰である大田資清(すけきよ)が憲忠に無断で成氏に対して挙兵する江の島合戦が勃発。憲忠は直接この事件には関与していなかったものの、責任をとって相模七沢にて謹慎した。その後、両者は幕府の仲介を得て和睦し、憲忠も職に復帰した。

そうした中、享徳元年(1452年)には中央で管領が畠山持国から細川勝元に交代。勝元は成氏に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡し、関東管領をとおして幕府の影響力を強めようとした。

享徳の乱、はじまる

享徳3年(1454年)12月27日、ついに成氏は上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺。これをきっかけとして以後、約30年間にも及ぶ「5代目鎌倉公方 成氏 vs 上杉家+幕府追討軍」の戦いがここにはじまった(享徳の乱)

分倍河原の戦い

主君・上杉憲忠が討たれたことを知った長尾景仲は、享徳4年(1455年)に成氏追討のために挙兵するも、成氏軍の圧勝に終わった。この戦いの報が入った幕府では成氏に同情的な意見もあって議論は紛糾するも、管領である細川勝元の意向によって成氏討伐令が上杉氏一族をはじめ周辺の守護である今川範忠(駿河)・小笠原光康(信濃)・宇都宮等綱(下野)・千葉胤直(下総(前守護))にも下された。

成氏は幕府に対して反意がなく、これは上杉氏との抗争であることを主張、しかし、幕府から回答は得られなかった。このため、京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたにもかかわらず、成氏は幕府に抵抗する意思を示すため、「享徳」の元号を使用し続けた。このことは享徳の乱が康正・長禄年の戦いでありながら、享徳の乱と称された理由でもある。

古河公方・堀越公方の誕生

こうして足利成氏は朝敵になった。幕府の追討軍の襲撃で鎌倉に戻れなくなってしまった成氏は下総古河に逃れ、ここを仮の拠点とすることを宣言。これが"古河公方"と称される。

長禄2年(1458年)、幕府は関東鎮静化のため、8代将軍義政の弟、足利正知を新しい鎌倉公方として伊豆の堀越に派遣。しかし、上杉氏が関東入りを拒否し、正知は堀越にとどまって拠点を設けた。これが"堀越公方"と称される。
堀越公方を推す両上杉家と、古河公方との争いは長期化し、次第に利根川(当時は現在と違って南の江戸湾に流れていた)を挟んで東側を「堀越公方」、西側を両上杉家が掌握していくようになる。

文明8年(1476年)長尾景春の乱が勃発。山内上杉家の家宰を継承できなかった長尾景春が謀反を起こし、古河公方につく。しかし、扇谷上杉家の家宰である大田道灌がこれを鎮圧。
この結果、かつては山内上杉家に比べて小さな勢力でしかなかった扇谷上杉家が、山内上杉家と肩を並べるほどに勢力を増し、これが後に両上杉家が衝突する火種となるのであった。

文明14年(1483年)、ついに幕府と古河公方との間で和解。こうして享徳の乱は終結し、お互いの領国支配を認めることとなった(都鄙合体)。堀越公方である政知の存在は宙に浮き、関東どころか伊豆一国の領主に過ぎなくなった。





関連ワード


おすすめの記事

 PAGE TOP