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「如意ヶ嶽の戦い」戦いの目的は京の奪回?それとも阿波への帰国?
──永正6年(1509年)

管領の細川政元が暗殺されて以降、細川家中で家督継承をめぐる長き内乱(両細川の乱)が勃発。この「如意ヶ嶽の戦い」はその一つの合戦に位置づけられており、細川高国に細川氏当主の座と京都を奪われた細川澄元と三好之長による反撃戦である。

合戦マップ

時期元亀元年(1570年)8/26~9/23
勢力細川澄元 vs 細川高国大内義興
場所現在の京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町付近

合戦の背景

永正4年(1507年)、当時の中央は管領の細川政元による細川政権となっていたが、彼には実子が生まれなかったため、細川澄之・細川澄元・細川高国という3人の養子を迎えていた。やがて養子の3人は家督を巡って争うこととなり、澄之によって政元は暗殺されてしまう。
澄之派の追討を逃れるため、澄元と家臣の三好之長は一度京から逃れるが、すぐさま侵攻して澄之を自害に追い込んだ。

一方、前将軍の足利義稙と大内義興がこの混乱を利用して上洛を企てようとしており、これを察知した澄元は、義興との和睦を図るが、義興は高国と通じることとなり、高国によって当主の座を狙われることに…。澄之は大内軍の勢力が迫ってくるのを知り、家臣の三好之長と共に近江に逃げ落ち、11代将軍足利義澄も近江に逃亡。高国が細川家の当主の座につくこととなるのだった。

これにより義稙は将軍の座を取り返すこととなり、義興は管領代に命じられる。近江に逃れた澄元だが、この不利な状況を打破すべく、永正6年(1509年)6月に近江から琵琶湖を渡って如意ヶ嶽に陣をはる。これを察知した高国も出陣、まもなく合戦となる。

合戦の内容

同年6月17日、澄元・之長軍は如意ヶ嶽に陣をひき、それに対して高国・大内軍も如意ヶ嶽に陣をひいた。澄元軍の兵力はおよそ3千人。対する高国・大内連合軍の兵力は2~3万といわれ、実に澄元軍の10倍の軍勢であった。

この戦いの展開は残念ながらわかっていない。之長は戦上手であったため、この劣勢で本当に京都奪還を目的として戦いに挑んだのかどうかは疑わしいからである。史料には「大雨を乗じて走った」とだけ記されていて、大きな衝突はなかったという見方が強い。
結局、澄元・之長らは雨に乗じて阿波国へ逃げ落ちた。彼らの目的は京都奪還ではなく、阿波国へ逃げ帰る事だったとも考えられている。

戦後

その後、阿波へと逃げ延びた澄元と之長は、足利義澄と連携しながら再び復権を企てる。共に京都への侵攻を試みて、 いくつもの合戦を仕掛けるが、復権とまではいかなかった。
永正8年(1511年)、澄元は軍勢を二分し、一方は細川政賢と連携して深井城攻め(深井城の合戦)、他方では鷹尾城攻め(芦屋河原の合戦)を行ない、高国軍に勝利。しかし、まもなく義澄が病死したこともあり、直後の船岡山合戦で高国・大内連合軍に大敗となった。

その後もまだまだ細川家の家督争いは続くのである。





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