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「芦屋河原の戦い」澄元の逆襲。政権奪還に向けて京に迫る!
──永正8年(1511年)

芦屋河原の戦いは、摂津鷹尾城周辺で起きた、両細川の乱の一つに数えられる内乱である。 反撃の狼煙を上げた細川澄元は、この戦いで一気に細川高国から政権を奪取するきっかけをつかむことに。

合戦マップ

時期永正8年(1511年)7/26~8/10
勢力細川澄元 vs 細川高国
場所摂津国・鷹尾城周辺(現在の兵庫県芦屋市)

合戦の背景

この合戦のきっかけは、元々は細川宗家の跡目争いが発端である。

細川政権をクーデターにより誕生させた管領の細川政元は、養子たち(澄之・澄元・高国)による跡目争いの煽りを受けて永正4年(1507年)に暗殺されてしまう。これにより、細川宗家の家督と管領職を巡る争いが勃発。
はじめは澄之が後継者となるが、すぐに澄元・高国らに討たれ、澄元政権が誕生する。しかし、この混乱に乗じて周防の大内義興が前将軍の足利義稙を擁立して上洛軍を起こすと、高国は澄元を裏切って大内氏に通じ、澄元や時の将軍足利義澄を追放。自らが政権を樹立すた。以後、高国と澄元の対立に加え、将軍職を巡る抗争も絡み、両陣営の争いがたびたび繰り広げられることに…。いわゆる「両細川の乱」である。

澄元らは永正6年(1509年)には如意ヶ嶽の戦い、翌年にも政権奪回に向けて侵攻するが、なかなか上手く行かなかったようだ。
一方、高国は澄元らの再挙に備え、彼らの侵略を阻む目的で摂津・鷹尾城の築城を瓦林正頼に命じていた。だが、その土地には惣村(=地元の百姓らの共同組織)が存在していて彼らが同地域を支配していたため、永正8年(1511年)の5月1日にはトラブルが発生、瓦林正頼が惣村の中心人物を討ちとってしまう。

この中心人物というのが澄元方であったとみられる。これを知った澄元は、高国打倒を掲げて再び挙兵。多くの兵を集めて本拠・四国から出陣した澄元は、軍勢を二手に分けた。

一つの隊は細川政賢を指揮官として堺へ向かわせている。細川政賢軍は7月7日に深井城に陣をはり、13日には深井の合戦で高国勢力と交戦し、これに勝利してその日のうちに中嶋城まで攻め上っている。
一方でもう一つの隊は、細川尚春が総大将となって兵庫に上陸。これに対して高国は、鷹尾城の山城部分に瓦林正頼を、平城部分には波多野稙通ら高国の馬回衆ほか、援軍3千程を布陣させ、迎撃体勢を整えるのであった。

合戦の経過・結果

7月26日には合戦が開始となる。澄元は四国を本拠としていたが、かつて澄之討伐の際に軍を勝たせるために周辺の土地情報をくまなく入手していた。それを利用して鷹尾城周辺の盲点を突く戦術を立てたことで、戦いの序盤から優勢に進めていったとみられる。

こうした戦局の中、澄元は播磨の赤松義村に援軍要請して勝負にでることにした。義村の義母は澄元の叔父に当たる細川勝元の娘だったため、両者は血縁関係にあったのである。
8月上旬に御着城を出立した義村は、同5日には兵庫浦に到着し、8日には鷹尾城を包囲したという。9日、赤松軍は敵に息もさせないほどに攻め立て、城兵は3千余りの犠牲者が出たという。翌10日には降伏・開城となり、合戦は終結した。

戦後

正頼は10日夜に城兵を引き連れて伊丹城まで退却。鷹尾城は様々な物資を奪い取られたあげく、火をつけられて落城した。 その後、勢いにのった澄元方の軍勢は一気に京へ向けて進軍。まもなく澄元軍と高国軍の一大決戦となった船岡山合戦を迎えることになる。





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